人生回顧 ジョン・レノン:他殺による不慮の死

 

(審神者が録画していた、「“イマジン”は生きている ジョンとヨーコからのメッセージ」を見る。そこで霊媒にも録画を見てもらって、対話が始まる)

 

 

2020年1124

「今、どちらにおられるのでしょうか?」

 

※ジョン・レノン

『あなた方は、昨日イマジンの番組を見ていただろう? そこで「ジョン・レノンはやるべきことはやったのではないか。(他殺ではあっても)その時点で(天に)引き上げられることは約束されていたことで、魂では納得していたのではないだろうか」と話しているのを聞いて、「そうか!」と思ったら、精神界から天界に来られたんだ。だから、天界に来たのはつい昨日になるね(笑)』

 

「それまで、どのように過ごされていたのでしょうか」

 

『銃で撃たれた後のショック状態が相当長かったんだけど、そこから抜け出ると今度は息子のことが気になって、地上をウロウロしていたんだ。意識的な準備なく死を迎えるというのは、いろいろな悔恨や悲しみを募らせるものなんだ。特に地上へ残した家族への情愛はどうしても強く、それが私を圧倒していた。

 

あの時点での死は、大きな意味で魂が求めたことであったとしても、人間というのはそれと背反する、いろいろな思いを心に抱くものだし、それまでの人生でため込んでいたものも、アストラル界で解消する必要があった。

私の幼少期は、母性的養護・父性的権威の両方が決定的に欠損していて、表向きにはいろいろ取り繕って話せたとしても、心の中はとても空虚でさみしく、何かすがるものを常に求めていた。それが女性への依存に向いていたんだね。ヨーコとの出会いは、魂の導きによるものもあったけど、それだけでもなく第23層での母を求める心というのも大きく占めていたと思う。

 

特に、そういう私を子育ての5年間が癒し、育んでくれた。無条件の愛を与えてくれるのは、子どもをおいて他にあるだろうか。子育ては、どう接してよいか分からないところからのはじまりだったけど、仕事よりもよほど大変で、思うようにいかず、イライラもし、無力感も味わった。それを何とか耐えて、淡々と毎日を重ねていくうちに、<今>にいるという穏やかな心境になれることもあったんだ。

 

自分の思い通りにしたいというエゴをそぎ落として、相手や天のペースに合わせられるようになるには、子育て以外にはないのかもしれないね。予想以上に大変だったけど、予想以上に得るものがあった。

 

アストラル界では、そのようなマイナスとプラスの両面の感情を一通り再体験していった。自分に何が起こったのかを整理していくためにも、ゆっくりとした歩みが必要だったんだと思う。

 

精神界に行くと、私はなぜこの人生を選んだのか、何を学ぶためだったのかをより俯瞰して、繊細に見ていく段階になった。ポイントは<あの時代>で、平和への道か、戦いへの道か、人類はその岐路にあった。

 

アーティストとして、そこで何を発信できるのかが、私には問われているようだった。型破りなこともたくさんしたけど、それは既成の枠組みからはみ出ていたとしても、必要なメッセージを伝えるためだったとも思う。そのメッセージのテーマは、<愛と平和>だったんだ。

 

それは、私自身が愛を渇望していた子供時代、その求めても得られなかったものに対する強い憧れもあったし、魂から素直に出てくる気持ちでもあった。そのようなメッセージソングとして、「イマジン」はあったように思う。私の人生は、そのためにあったと言っても過言ではない。

 

今回の人生では、いろんな悪いこともしたし、人に迷惑をかけたことも多々あった。でも人格としてすべてをそつなくこなさなくても、「これだけはやってくれよ」という魂の約束さえ果たせば、他は大目に見てもらえる、ということもあるんじゃないかな。それに加えて、子育てにしっかりと向き合ったことで、私は何とか合格点をもらった、ということなんだと思う。

 

こう思えるまでは、あの死に方に関してはずっと引っかかりとして残っていたんだ。因果応報から考えれば、「私の何かが足りなかったのだろう」と思わずにはいられなかったからね。しかしあなた方に「約束されたことだったのだろう」と言われて、「それでいいのか!」と肩の力が抜けてしまったよ。その一言で、私は自分の人生を、いいことも悪いことも含めてまるごと肯定できたように思う。

 

確かにマイケル・ジャクソンも、第23層では多くの闇を抱えながらも、魂からの発信をした人で、それは私も同様だったんじゃないかな。それはお互いに被虐待児としての人生を選び、その逆境があったからこそ、心のこもった強いメッセージを発信できたし、その真実味から人の心にも伝わるものになったのだと思う。

 

そして死というのは<悪果>とは限らず、「魂の仕事は十分になした。お疲れさん」ということでの<天への回収>というのも、確かにあるだろうね。その捉え方は、地上への執着もない、軽やかさが感じられた。

 

そういうことも総じて考えれば、いろんな寄り道もしたけど、まぁ何とか魂の道を歩くこと(=与えられた役割を果たすこと)は、やり通したかなと思えたんだ。

 

あなた方の声は、こちらではよく聞こえているよ。天と地の共同で学びあっているというのは本当で、私もそこから学んだ1人だった』

 

 

2020年1124

※直子さん

「オノヨーコさんに何か伝言はありますか?」

 

『当時の献身的サポートには心から感謝しているけど、それを伝えてほしいかといえば、そうでもないかな。私たちは、最もインスピレーション豊かな華の時期に出会い、一緒に魂の仕事をしたけど、それは<その時>のベストパートナーであって、<今>もそうとは限らないからね。そして彼女にとっても<今>必要なことは、私からの連絡が来ることではないんじゃないかな』

 

「今、ポール・マッカートニーについては、どのように思われますか?」

 

『生前は嫉妬したり、ライバル心を持ったりもしたけど、それでも尊敬する気持ちは奥底には強くあったんだ。彼の才能のきらめきは、ピカイチだと思っていたよ。

 

今は、彼のよさ、私のよさを互いに心を開いて話し、また新たな気持ちで共に音楽を創りたいなと思う。彼に音楽のことで問いかければ、<打てば響く>ように、美しいメロディにセンスがそえられて返ってくるあの気持ちよさを、また味わいたいからね。

 

創作の場というのは、ある種の瞑想体験であり、そこで出てくるアイディアは、神からの啓示だと思える時があるんだ。1人で創る時もそれはあるけど、自分とは違ったタイプとの協同は、お互いのよさを引き出しあえる、今となってはさらにそう思うね。だから5次元での再会が楽しみだよ』

 

 

2020年1125

※対話記録

「ポール・マッカートニーの曲はアートとしての美しさがあり、(オノヨーコさんと一緒になってからの)ジョン・レノンの曲は、メッセージソングとしての要素が強かった。アートは<美>を追求していくものだが、メッセージソングは社会的イデオロギーのもとで<正義>を主張するものが多いのではないだろうか。

 

そのようなメッセージソングは、第3層での共感があるものの、アートとしての音楽はそれよりも深いところ(第1層)を源泉とするものも多いのではないだろうか。

 

これまでも、次元によって体現されるものとして、<真=7次元、美=5次元、善=3次元>と言われてきた。しかし<真=美>にはなったとしても、必ずしも<美>と<善>はイコールにはならないような気もする。

 

それは善悪というのは、結局は地上の観念であり、美はそれを上回って、天とつながるものだからではないだろうか。真理は必ず美しさを伴うものなので、美を追求するのは、真理を追究するのと同じ価値があるようにも思われる」

(ただし、アートも人それぞれで、どのレベルでも楽しめる。美への関わり方はさまざまで、天につながるレベルから、職業的なレベル、あるいは生活の中で楽しむレベルなど、多様であるという話にもなる)

 

『今日のみなさんの話で、自分が今生で何をしていたのか、アートという切り口においても整理されたように思う。確かにビートルズ解散後のメッセージソングは、<善>を主張するものだった。その時は私の中に怒りや正義感が内在していて、あるべき姿や理想を問いかけていた。

 

でも、そのようなメッセージは、その時は最も大切にしていたものだったけど、いざ天界に来ると、何だか過去のものとして遠く感じていたんだ。その理由は、イデオロギーは観念であり、善すらも3次元の観念だったからなんだね。これは、目が覚める指摘だった。だからこそ今は、<善>ではなく、純粋に<美>に惹かれている理由が、とてもよく分かったよ。

 

<美>というのはアートの根幹であり、それを追及し、楽しむことが5次元の豊かさに直結していくんだろうね。そして<美>を追求することは、<真>に至ることと同義であるというのは、滝に打たれたような爽快感があった。今の私がアートを欲する深い動機は、<美>を通して<真>(=神)に触れたいということなのだと、腑に落ちたよ。

 

その後の、アートは様々な段階における楽しさがあるということも納得で、ひとことで<5次元=美(アート)>といっても、その奥深さ、多様性は計り知れない豊潤さがありそうだね。5次元での新たな生活がますます楽しみになる話だった』

 

 

※対話記録

「ジョン・レノンさんにつながって、どのような話に展開するかは分からなかったが、蓋を開けてみると、上記のアートに関する話題に加え、<心の準備がないまま亡くなった人>という面も重要だったのではないだろうか。

 

死後の浄化プロセスが上手くいかない3項目として、①自殺した人、②心の準備なく亡くなった人、③死後世界を否定していた人、というのはこれまで言われてきた。

 

そして、これまでの話題として①と③についてはあったが、意外に②のパターンは今回のジョン・レノンさんがはじめてだったかもしれない。しかも今は<あの世>に指導霊がいない中で、その理由を自分でもつかめないとしたら、長いことアストラル界に留まっていたという話もよくわかる。

 

「もうやるべきことはやっていたので、例え他殺ではあっても、魂は受諾していたのではないか」というのは、彼以外でも心の準備がなく突然亡くなった方々にとっては、参考になったのではないだろうか」

 

 

『これに関しても、本当にそうだったと思うよ。余命がほぼ分かっている病気や、戦死などそれなりに覚悟している場合は、「やはり死んだか」ということで、事態を受け入れることがスムーズみたいだね。

 

だけど、私のように他殺で即死という場合や、事故死・災害死などもそうだけど、希望をもって生きようとしている心とは裏腹に、本人にとっては突然、強制終了させられる訳だからね。やはり人間的感情としては、非常に無念で戸惑うんだ。そのため、死後のプロセスにおいても「なぜだ!」という気持ちが、どうしても付きまとってしまうことが多いみたいだよ。

 

それが、「バチがあたって死んだのではなく、もう天に戻ってもよいから引き上げられたのだ」、「これ以上、地上で苦しむ必要がないから回収された。それを魂も望んでいた」というのは、特に今のような輪廻の仕上げの時期に生まれて、強制終了された人たちにとっては、待望の回答だったんじゃないかな。それで救われる人は、相当多いと思うよ。

 

そして、そう思えずにいたのは、<死>というものへのネガティブな観念がたぶんにあったと思う。それ自体も、地上絶対主義になってしまった悪癖の観念だった、ということなんだろうね。

 

こうして話ができて、曖昧だったことがスッキリとしたよ。観念から抜ける(そしてそれを明晰に意識化する)というのは、これほど気持ちのいいことなんだね。どうもありがとう!』

 

 

【目次】に戻る