立花隆〈あの世〉でのインタビュー2  大政奉還・明治維新:徳川慶喜×渋沢栄一

2021年102

 

立花 『どうも、立花です。まさか地上からインタビューのご依頼が、再び来るとは思っておらず、すっかり油断していました()

 

今回のインタビュー相手は、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜さんということで、同時代に家臣としても勤められた渋沢栄一さんにもご臨席いただいています。

 

サラチームからの質問は「徳川慶喜さんが大政奉還をしてあえて戦わなかったのは、日本を諸外国の侵略から守るためだったのではないか」ということですので、その辺のお話をお伺いするのが楽しみです』

 

慶喜 『わ、こういう襟を正した感じのインタビューなんですね()。性格的に合うかなぁ…』

 

渋沢 『立花さんは、結構、しっかり仕切ってくださるんですよ()。雑談では流してしまうことなども、改めてしっかり問われると、聞き手の力もあってか、意外に話しやすいところもありますから』

 

立花 『日本人は沈黙の美学を持っていますから、おそらく「1人で話してください、さ、どうぞ」と言われても、あまり自己アピールされないんですよね。だから私が抜擢されたのかもしれません』

 

慶喜 『確かに、そういうところはありますね。「どうだ、私は日本を守ったのだぞー」なんて、自分では言いません()

 

立花 『ですよね。ひょうひょうとされた印象からも、そういうのは言わなさそうだなと感じます()。ということで、まずは当時の日本の状況を簡単に教えていただけますか?』

 

慶喜 『はい。265年続いた江戸時代は、それなりに豊かで安定した社会でした。村、藩、幕府、朝廷と(管轄領域を)分けていたことで、争いごとにエネルギーが注がれない分、文化的な豊かさが花開いた時代だったように思います』

 

渋沢 『人々も濃厚に交流していましたしね』

 

慶喜 『そうですね。わりにいい時代だったんです。その上、人間関係が深まったところでやり取りしているからか、相手がどういう人か、どれほど魂で語っているのか、邪心はあるか、その人の強みは何かなど、その人となりがお互いに透き通って見えるかのようでした』

 

立花 『心の第2層に曇りがないと、そのような相手の内面的なものまでを、自分の観念で歪めずに受け取れるということでしょうか?』

 

慶喜 『そういうことですね。なるほど、インタビュアーがいると、このように端的にまとめてくれるということですね。さっそく役立っていることを実感しましたよ()

 

立花 『ありがとうございます()。お二人の出会いの時は、どのような印象だったのでしょうか?』

 

慶喜 『ずいぶん生意気だけれど、腹の据わったのが来たなと思いました。佇まいや、目の真剣さから、それが伝わってきました。言うことも的確で、ゴマをすっておべんちゃらを言わないところにも、好感を持ちました。彼の影響を受けて、私の心もシャンとするようなところがありました』

 

立花 『渋沢さんはいかがでしたか?』

 

渋沢 『物言わぬ静けさの中からの一言が、思索を重ねた上でのものであろう、と思われました。信頼しても下さいましたから、今後お仕えしようと思いました』

 

立花 『直子さんが、慶喜さんと渋沢さんは、三島さんと川端さんのようなソウルメイトだったのではないかということでしたが…』

 

慶喜 『それはあったと思います。お互いに刺激しあい、尊敬しあい、助け合いという感じでしたよね』

 

渋沢 『はい。私は幕臣として拾ってもらい、なおかつパリに行かせてもらって、資本主義経済のイロハをそこで学んだという意味でも恩人でした。

帰国してからは、今度は私が経済面で支え、「徳川慶喜公伝」を出版したのも、やはりまずはその恩に報いるためでもありました。

 

しかしもっと深いつながり、魂の因縁はやはりあって、同じ時代に支え合い、助け合うために生きていたように思います』

 

立花 『三島さんと川端さんの生きた戦後も相当強いエネルギーが働いていたと思いますが、江戸から明治への転換期も日本の歴史の中でも重大な局面で、エネルギーも強かったですよね』

 

慶喜 『まさしく、です。平和な時代が続き、その中で人々の精神性も十分に育まれていましたし、学問にも文化にも恵まれていました。教育の中で道徳は特に大事にされ、神話にも親しんでいる。なおかつ武士道で、仁義、闘魂が鍛えられた人も多く、非常に才気あふれる人たちが多い時代でした。その重要な時代の節目に、あえてみなそろって生まれてきていたという面もあったのでしょう。

 

ですから、黒船が来航し、その後も諸外国が開国を求めてきた時に、一斉にみなの血が騒ぎはじめました。それは表層的な理由はいろいろだとしても、深い所では「日本をいかに守るか」といことだったのです。それは、攘夷派だろうと、開国派だろうと、どちらも同じ志であったのです。

 

しかしそれぞれに、やり方は違うわけで、それで対立してしまう。私はどちらかといえば、その根っこのところの〈日本〉を見ていたので、その方法としては、その時の状況に最も適していることであればよく、特にこだわりがあったわけではなかったのです』

 

立花 『だから二心殿と言われたわけですね』

 

慶喜 『そういうことです。それを率いる人(軍勢)の動き、諸外国の動き、朝廷の意向、時期、もろもろ鑑みて、〈今〉は何がベストかということを、その都度考え、大政奉還なり、戊辰戦争での逃亡なりを決めていました』

 

立花 『臆病者ではなかったのですね()

 

慶喜 『見方によっては臆病者でしょうね。武士たるもの、戦わずして退散するなどありえない、終生の恥、みたいなところがありますから』

 

立花 『どうして戦わなかったのですか?』

 

慶喜 『戦えば国力が衰退し、日本は諸外国の植民地になってしまいます。それは他国の例からも明らかでしたし、その諸外国の文化・経済・武力は日本よりもはるかに優れていることも、実際に外国を見てきた家臣から伝え聞いていました。

 

これだけ小さな島国の日本が、内戦している場合ではないのですが、動乱の中での相当な挑発と刺激が薩長軍からあり、軍はもう火がついてしまっていました。止められない勢いで走り出してしまっている中で、どうみなの熱気を冷ますかを考えると「よし、ここは恥だけど逃げましょう」となったわけです。

 

身内も奇想天外すぎてポカーンとなったのではないでしょうか。いろいろ策を練れば、勝てる戦なのですから。諸外国の応援も受けない、日本の中でも戦わない。私が軍を作ったのは国内戦争のためではなく、自国の防衛のためだとそれまで言ってきたことが、最終的には何とか伝わった人もいたかなと思います。非難も多かったですが…』

 

渋沢 『打ち首も覚悟しての逃亡だったんですよね』

 

慶喜 『そりゃそうです。「その後のご判断はお任せしますが、私は戦いません」ということで謹慎したわけですから』

 

立花 『なぜ打ち首にならなかったのでしょうか。いろんな理由を政治的にこじつけて、そうされてもおかしくはないですよね』

 

慶喜 『勝海舟さんがうまく交渉して下さったことも大きかったですが、天からのご加護もあったように思います。

先ほど、その時代はとても強いエネルギーが働いていたと言われましたね。戦後はアストラル界のエネルギーが強くなり、勢力を増してきましたが、私たちの時代は天からのエネルギーの方が強く、正しいことをすればその結果は正しく返るという、正義が通る時代でした。

 

私にも天からのエネルギーが注がれていたように思います。そういう時ほど冷静で、泰然としていたのは、そのためであったのでしょう』

 

立花 『天とつながっていたにしろ、なぜそのような大義としての行動ができたのでしょうか?』

 

慶喜 『まずは教育が大きかったと思います。(幼い頃から学んだ)水戸学は人のためにいかに身を処すかということが根底にあり、そのための道徳を基盤とした学問でした。私の父も「朝廷を補佐するのが徳川家の役目であるから、決して弓矢の矛先を朝廷に向けてはならない」と言い伝える人でした。

徳川家があれだけ長く続いたのは、その根底に天皇を敬い、人民の幸せを願い、そのための政治を心掛けたからこそだったのでしょう。

 

さらには、神話がしっかり根付いていたということも、無意識的には働いていたと思います。国つ神は天つ神が降臨して来た時、戦わずに国譲りをして平和解決していますよね。それは理想的な在り方であると、無意識的学習はなされていたと思うのです。

 

そしてより意識的には仏教の影響もありました。聖徳太子の「和を以て尊し」は説得力があります。

 

その上、若い頃から戦いをみるにつけ、どんどんヒートアップして、結局はやられた悔しさをまたやり返さないと気が済まない、そのエンドレスな勝ち負け戦に不毛さも抱いていました。そこに来て、より強い列強国が小国日本を狙っている最中に、国が疲弊していくのは避けたい。

自分の権力や名誉という小さなことは言っていられず、国家の難題という大義の中で、自分はどうすべきか。その時は考え、考え、最後はやはり祈りました。

 

すると「そうだ」と解決策を思い付くこともあれば、それで浮上していたアイディア実行の肚が決まるということもあり、その時々で、いちかばちかでも覚悟をして行っていたと思います。すると結果がよいようになって、天からも助けられる、という具合でした』

 

渋沢 『相談する人はいたのでしょうか』

 

慶喜 『いました。いろんな人の意見は聞く方で、進言してくる熱意ある人も多く、本当にいろんな意見を聞きました。

でも一番私の話を聞いてもらったのは、側室の女性たちでしたね。彼女たちは「だったら、そんな戦い、しなければよいではないですか」など、男性思考からは考えられないことを、ポーンと言いのけますから()。私は「なるほど」と思って、それで背中を押されたところもありますね。

 

あれ、これが真実に一番近いかもしれないですね()。いろんな要素があるにしろ、彼女たちの後押しというのは大きかったですよ』

 

立花 『なんと、女性からのアドバイス! それが最も正しいのかもしれませんね。男性思考であれば、勝ち負けのスイッチがやはり入ってしまいますから()

 

渋沢 『天意と女性の声を、どちらもしっかりと聞いておられた印象です。それが本来の在り方であり、模範とするところなのでしょうね』

 

慶喜 『自分では大義名分の方をどちらかといえば意識していたので、女性からの影響は今回こうして話してみて、改めて自覚しました。インタビューじゃないと出てこなかった話だったでしょうね()。いやはや、参りました』

 

立花 『良かったです。しかも旧知の渋沢さんがいたからこそ、聞けた話だったと思います。そういえば、男性は女性からサポートを受けていたという話は、あまりしませんね。歴史の中にもあまり出てきませんが、平和な時代というのは、表に出てこない女性の力が大きかったのかもしれません。次の時代もきっと、そのようになるのではないでしょうか』

 

慶喜 『それには納得です』

 

立花 『ところで、引退後にいろんな趣味を持たれていたことについても、お伺いできますか?』

 

慶喜 『どうも私は好奇心がとても強く、しかもいろんなことに気が向くんですね。だから「あ、これも楽しいな、あれもいいな」と割と人生を謳歌していましたよ』

 

渋沢 『性格もサッパリしていますしね』

 

慶喜 『そう、サッパリ。うじうじ悩んだりしませんね。かといって何も考えていないということでもないんですが…』

 

立花 『執着が薄い?』

 

慶喜 『それはありますね。自分に与えられた場所で、その時にできることをする、というだけです。

その頃は、政治の舞台から離れていることが私の役目でしたから、だったらいろいろ楽しもう、というくらいの割り切りですよね。野心とか欲望での執着は手放して、魂が喜ぶことをしていたということです』

 

立花 『最後に、みなさんにメッセージはありますか?』

 

慶喜 『私の生きた時代は、日本人としての誇りを持ち、それぞれの正義感で動いていました。しかし今は、正義を口にすると煙たがられ、表舞台からも引きずりおろされる時代になったと聞きます。品格も正直さも失われたとのこと。なるほど、そうなれば潔く終わらせるしか、ありません。

 

江戸幕府を終わらせる役目だった私は、終わらせることにどれだけエネルギーがかかるのか、実感を伴って感じますが、しかしダラダラと続けていいことは1つもありません。始めたからには、終わらせる責任があるからです。

 

終われば次の新しい時代が、きっとやってくることでしょう。そこでまた共にやまとの民として、日本国を創っていければと思います』

 

 

 

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