立花隆<あの世>でのインタビュー4 アートの力 :チャールズ・チャップリン×ルネ・マグリット
2021年10月27日、28日
立花 『今日は「アートの力」について、チャップリンさんとマグリットさんにお越しいただきました。
チャップリンさんは、あの口ひげに帽子の放浪者のキャラクターで有名な役者で、後半は映画製作自体もプロデュースされていました。マグリットさんは、ほぼ同時代にベルギーで画家をされていて、先入観から離れての無意識の探究を目的とするシュルレアリスム作品を中心に描かれていました。
このお二方に、「アートの力」についてインタビューをということですが、これまた壮大かつ深い話のような気がしています』
※その空間は、マグリットさんが生前に描いたような、現実的にはありえない不思議な空間となり、チャップリンさんは髪をピンクにそめておどけた顔をし、マグリットさんは透明人間になり目だけを出してパチパチと瞬きして見せている。
立花 『こ、これは、何ですか?』
チャップリン 『立花さんは真面目な方なんでしょうね。カチカチなので、笑ってリラックスできるようにと思いまして(笑)』
立花 『あ~、やはりその性分が出ていましたか(笑)。徳川慶喜さんにも、「こんなに襟を正したようなインタビューは、自分には合うかなぁ」なんて、言われたばかりなんですよ。どうしても進行役として、ちゃんとしてしまうんでしょうね』
マグリット 『ちゃんとしていることは大事ですが、まあリラックスしていきましょう』
立花 『ふぅ~(と息を吐き)、ありがとうございます。改めて力を抜いたところで、まずはどのように育ったかということから、お話しいただけますか?』
チャップリン 『私の両親は舞台芸人で、子どもができて早くに離婚したために、私は母と異父兄弟とで貧しい暮らしをしていました。母が病気になると救貧院に入れられたこともあり、そのような施設を転々としていました。安心し、愛情に恵まれた子ども時代ではなかったですから、心の中にはいつも不安とさみしさと孤独感のようなものがありました』
マグリット 『チャップリンさんもそうだったんですね。私は母が鬱などでふさぎ込んでいる幼少期を過ごし、14歳の時にはその母が川に飛び込んで自殺をしてしまったんです。もう頭がガクガクとし、心はいったんフリーズしたほどの衝撃でした。母が数日後に川下から発見された時には、着ていたネグリジェが顔にからまっていたということでした。実際に見たわけではないものの、それ以後ずっと母の顔が布に覆われて、思い出せなくなってしまったほどでした』
立花 『マグリットさんの作品の中の、布に覆われている顔の絵や、顔自体が何かに隠れて描かれていない絵などは、その影響だったのでしょうか?』
マグリット 『はい、私の場合、心の中にある絵を外に描きだしていくことが多く、そうなると第2層(無意識的自我)にあるものは、そうやって出てくるのでしょうね。絵というのは思考でもある程度描けますが、どちらかと言えば無意識が現れやすい芸術だと思います』
立花 『無意識が現れやすい芸術とは、どういうことでしょうか?』
マグリット 『音楽にしろ、舞にしろ、絵にしろ、アートというのは第1~3層を使って表現するものですよね。本人がどの層までを意識的に把握しているかは、それぞれ違うにしても、割合その人の第2層というのは、アートの中ににじみ出てしまうものだと思います。自分の中から何かを表現しようとするのが、アートだからです。
その中でも絵というのは、風景をそのまま描写する場合などは別かもしれませんが、心の中にあるビジョンそのものを出すことも多くあります。また、意識的に描いているつもりでも、無意識的なことが絵の構成やモチーフや形式を通して、出てきやすい面があるのです。
そして、例えば音楽や舞以上に、無意識的に出たものを自分で客観的に見ることができる、というところも特徴ですかね。絵というのは、その時、その場限りのものではなく、残り続けますから、外に現れたその絵を今度は自分が見るという段階になると、かなり俯瞰的に自分を見ることにつながります。自分が描いた絵を通して、無意識の意識化をしていくこともできるということです』
立花 『マグリットさんにも、第2層がそのまま絵に現れているような時期というのは、あったのでしょうか?』
マグリット 『ありました。今、世に出ている絵は自分のスタイルが確立してからのものが多いですが、それまではいろんな絵を描いていました。その頃は、自分の第2層がそのままもろに出てくるような絵も多く、そのように自分が外に表現したものを見て、自分の心を受け入れていく時期が、その模索期だったと思います。最初から第1層にポーンと至って、それを表現する画家もいるのかもしれませんが、そのような人は、特に問題のない家庭で育ち、美しさにまっすぐに惹かれるところがあるからなのでしょうね』
チャップリン 『私の場合は、ずっと模索期だったと思いますが(笑)、しかしアートというのはゴールがあるというよりも、自分を深め、鍛錬していく道をずっと歩いているようなものなのだと思います。
現代のように、売れるかどうかだけが目標になった場合は、売れて調子に乗って終わりでしょうが、表現したいという魂の欲求に従うならば、その時々でのベストはあるにしろ、やはり生涯、探究と研鑽の中にいると思いますね。
そして私は、役者だけではなく、次第に映画製作全般のプロデュースもするようになりました。そうなると、マグリットさんと同じで、より客観的に自分を見るようになっていきます。「こういう映画を創りたい」という構想から、その中で自分がどう動けば最も伝わるものになるかということを、考えた上で演じていました。
その映像をチェックしていくことを通して、ある意味自分を映画の中の登場人物として、俯瞰して見る目線をつかんだ。それは、自分の無意識層を消化していくためには必要な、心との距離感だったように思います。没入して主観的世界に浸らずに、冷静・客観的に自分を見るという視点です』
立花 『なるほど。お二人とも絵や映像の中に現れた自分を客観的に見ることで、自分を見る目が養われたということですね』
マグリット 『はい。そして、その時に忘れてならないことは、自分一人の主観だけではなく人の意見も聞いた、ということにあると思います。表現したものというのは、必ず他の人の目で見た意見を言ってもらいますよね。そうすると「あぁ、なるほど、そういう解釈があるのか」と、自分では気づかなかった無意識の部分にも、光があたることも多かったです。
本来であれば見えない心が、アートとして見える形になると、それを題材に人と深い話ができるというのは、アーティトにとって大きな魅力です。私にとっては妻がその話し相手であり、彼女は芸術に対して見る目を持った良きパートナーでした。幼馴染でしたから、若いうちから無意識を意識化していくための一言を、ポンと言ってくれる人でした。そのフィードバックがなかったら、自分の中だけでの第2層の消化は難しかったと思います』
チャップリン 『私は映画を創るようになってから、その制作チームの数人とはずいぶん話しましたね。どちらかといえば、自分のスタイルややり方や方針は、確固として持っていた方ですが、それでも映画は1人ではできませんから、いろんな人にその持ち場のプロフェッショナルとして関わってもらっていました。
やはり彼らもこだわるところは言いますし、私1人の目だけではなかったということが、大事なことだったのですね。これまでそれに関しては、それほど意識していなかったのですが、マグリットさんのお話をお聞きしてそう思いました』
立花 『なるほど、関わる人の目が入ることで、より客観的・多角的に見ていく目が補強されていたということですね』
マグリット 『アーティストは、人と関わって意見をもらって内省を深めていくタイプか、自分一人の世界観を貫き通してやっていくタイプかに分かれますね。私たちのように心の問題を抱えている場合は、前者でなければ難しいのではないかと思います。
一人の力というのはやはり限界があり、人と関わって支えられ、その中でどう学んでいけるかというのは、個人的表現だと思われがちなアートの世界においても、必須なのではないでしょうか』
立花 『そういうことですね。そのような、人の目も含めて客観的に見る目を持ったことで、第2層の心の闇も見ていけたということですか?』
チャップリン 『見ているだけではなく、追体験もしていると思います。例えば、役者が演技であっても、悲哀や孤独感をその何気ない表情やしぐさの中に表現する場合、自分の中のその感情にアクセスし、それを味わいながらも、役の中にそれがうまくなじむように客観性も意識しているという状態なんですね。
そうすると、感情に没入してはまりこんでいくことは抑制しながらも、自分の感情そのものを追体験して昇華していくことになっていたと思います。怒りやその他の感情に関しても、同じです』
マグリット 『その感じはよく分かりますね。絵でも自分の感情そのものを吐露する段階を超えて、客観的な目が自分の中にできてくると、その感情そのものを味わって受け入れつつ、それを昇華した形で作品の中に盛り込めたりします。
そこにまで至ると、感情が潜在化してうごめいている時よりも、スッキリと整理された感じで心の中に納まっているような感覚になりました。それが、自分の心の第3層→第2層→第1層へと自分を深めていきつつ、その無意識にあったものをアートの力で作品にまで昇華していった、ということだと思います』
立花 『アートは、第2層を浄化していく力もあるということですね』
マグリット 『そうです。その浄化力は、癒しともいえる大きな力でした。自分の中に溜め込んでおくだけでなく、外在化して見える形に出すだけでもスッキリするところはあるんですよね。
それを自分や他者の目を合わせて、さらに客観的に意識化をしていくというプロセスがあることによって、吐露するだけで終わってそれに巻き込まれていくのではない、本当の癒しになっていたと思います。
なおかつ、そのような自分の中で昇華された第2層というのは、ある意味での個性や深みともなっていたのではないでしょうか。それが作品としていい味を出していくことにもつながるのです』
立花 『確かに、闇があったとしても、それを昇華したからこその人間としての深みが、作品から醸し出されているというのは、感じることがありますね』
チャップリン 『そうですよね。そして、そのプロセスを歩むのに、追い詰められた感じや、修行僧のようにしているかと言うとそうではなく、私の場合はユーモアがそのベースにあったからこそ、歩めたように思います。映画の中に、悲哀や哀愁や切ない愛、思いやり、正義感、社会批判までを込めていましたが、そのベースはやはり喜劇だったからです。
笑いというのは、感情に没入していかずに、俯瞰性をもった心の余裕を取り戻す効果があるのではないでしょうか。力みが取れて、楽にもなりますよね。ただの批判や攻撃ではなく、その悲劇の中にいる自分たちの滑稽さを、少し俯瞰したところから喜劇として描くというのが、私のユーモアを含んだアートだったように思います。
そして、そのように俯瞰している目というのが、第1層の目、すなわち神の目でもあるのかもしれませんね』
マグリット 『そういえば私も、ユーモアをセンスよく表現するのを好みました。それは人間としての自分の枠組(思考や固定観念)を超えて、ポンと降ってくる時もありました。それが第1層に至って、天とつながった中で降りて来るものだったのでしょうね。例えば、「ピレネーの城」と題した巨石が空中に浮いているあの画も、そのように思い付いたものだったのです。
あれは観念に強く語りかけますよね。どう見ても重そうな石が、宙に浮いているなんてね。見る人も、第3層の思考、第2層の感情、第1層の魂部分と、すべてが刺激されるのではないでしょうか。そういうゾクゾクする絵を描けたとき、私の好奇心が「これだ、このスタイルだ!」と思い、その魂が希求する方向に向かっていきました。
そしてそれは、自分自身の救いでもあったのです。すなわち、魂の求めるアートを追い求めるということは、自分を深めていき、その自分を知り、昇華していく道を歩むことになります。その魂に触れた感覚を持っているからこそ、心の第2層に大きな闇があったとしても、そこを超えて何とか魂に至りたいという強いモチベーションがわき、自分自身を第2層の捉われから救うことにもなっていたのだと思います。
もちろんそれらは、生前は無意識なのですが、天とつながったアートに向かうというのは、自分が捉われている心の闇から、救われたい一心で光に向かっている面がやはりあったと思いますね。ですから、私やチャップリンさんをはじめ、ピカソやゴッホやムンクなど、心に闇を抱えた芸術家は、一心不乱にアートに救いを求めていたといえるのではないでしょうか。
そして、その歩みのプロセスにおいて闇に飲まれてしまうということももちろんあり、結果はそれぞれなのでしょうが、私は周りのサポートに助けられたという面はとても大きかったと思います。自分の意志の強さだけでできるかというとそうではなく、徳川慶喜さんのお話でも、窮地での意思決定に影響を与えたのが側室の女性であったように、私も妻に大いに助けられていたものです』
立花 『チャップリンさんもそうでしたか?』
チャップリン 『私は4回目の結婚でやっとそうなりましたが、3回までは母との因縁を繰り返していたと思います。でも、4回目でやっと妻に支えられることを味わっていますから、マグリットさんのお話にはとても共感します。
そして自分の心に闇があるからこそ、天とつながったアートに救いを求めていたというのは、私の場合もまさにその通りでした。シーンを考える時も、天とつながって降りて来るものをなるべく拾おうとしていて、そのインスピレーションが降りて来る時には、大いなる愛とつながることで受け止められているような、深い至福感があったように思います。それはやはり癒しでしたね』
立花 『なるほど。自分を救うというアートの癒しの側面もよくわかりました。その他、アートの面白さは他にあるでしょうか』
チャップリン 『第1層だけではないというところでしょうかね。自分の第2層、そして第3層をも統合した形で、それをどう表現して伝えていくか。それが人間として面白いと感じていました。
それまでの自分の技術や知識を総動員しながら、自分が伝えたい思いや価値観も大事にし、その上で天とつながったところで降りて来るアイディアにも心を開く。その第1~3層の総合芸術がアートですから、やってもやってもまだ完成しない面白さというのが常にありました。向上し続けて行けるという面で、飽きないということです』
マグリット 『飽きないというのは、続ける上でとても大切なモチベーションです。好奇心が次々とわいてくる、ということでもあると思います。天からくるインスピレーションは、その瞬間にスパーンとしたひらめきをもたらしますが、そういうものほど不思議と自分で何度振り返っても飽きがこないんですよね。
それは見る人にとっても同じで、だから天とつながっているアートほど飽きずに、時代を超えて人々に感動や新鮮さを与えられるのだと思います。そこに表現されているものが深いので、いろんな読み取り方もできる上、普遍的な真理や美しさが内在しているからではないですかね。そのような作品は、人生でいくつかしかできないかもしれませんが、アーティストにとってそういう作品に至ることは、何にも代えがたい喜びであり、面白さでもあると思います』
チャップリン 『アートという<美>に、マグリットさんは<真>を取り込まれていたのでしょうね。3次元の観念から抜け出た、高次元の真が込められていたように感じます。それに対して私は<美>に<善>を加えていたように思いますね。平和を訴えていましたから。
いずれにしろ、アートとは縦軸の<真(7次元)、美(5次元)、善(3次元)>のどれをも含められ、なおかつ横軸の第1~3層をも含んだところで表現される、総合芸術であるといえるのではないでしょうか』
立花 『様々な角度からお話しいただき、ありがとうございました。アートの力について「無意識を外在化し、客観的な目でのフィードバックによってそれを意識化し、感情の追体験による心の浄化は、救いや癒しまでをもたらす。そしてユーモアや枠組みを外した視点もでき、縦軸と横軸を網羅した総合芸術として、それを表現する人、見る人の両方に深い影響を与える」ということを、お二人の実体験からお話しいただきました。本当にありがとうございました』