立花隆<あの世>でのインタビュー6 自己を深めるための対話と瞑想の効用と限界:ソクラテス×空海
2021年11月12日~14日
立花 『今回、またレジェンドにお越しいただいています。<無知の知>を説かれた哲学者のソクラテスさんと、真言密教を日本で広めた空海さんです。それぞれ、対話と瞑想の専門家として、「自分を深めるための、対話と瞑想の効用と限界」と題したインタビューをお願いしています。さて、今回、何かアイドリングはいるでしょうか?』
空海 『もはやご自分から聞かれるようになりましたね!』
立花 『はい、何度か「固い」というご指摘をいただきましたから(笑)』
ソクラテス 『歴史的レジェンドの場合、細かな自己紹介はもはや不要ですよね(笑)。だから私は今回、立花さんにいろいろ質問してみたいですね』
立花 『マジですか!! 私にですか? 意表を突かれた感じです』
ソクラテス 『すみませんねぇ、何分、好奇心旺盛で知りたがりなもので(笑)』
立花 『すっかり、インタビュアーの立ち位置に安住していましたが、ソクラテスさんにかかるとこうなるのですね』
ソクラテス 『一方的に話し、結論を言うというのはつまらないですから。それって、こちらの考えの押し付けかもしれませんし』
空海 『こういう、先の読めない展開、ワクワクしますね!』
ソクラテス 『ではまずは、立花さんがこれまで、この<あの世でのインタビュー>をされて、どのような感想をお持ちになっているのか、教えてください』
立花 『はい。未公開のものも含めて、今回で16回目のインタビューなのですが、その中でもシリーズ3の本に収納されているものは、地上で何度も対話がなされた話題でもあったので、それがアカシック・フィールドに情報としても書き込まれていました。だからみなさんに話を振りながら、それを簡潔に要約するという気持ちがどこかで働いていました。
しかし、徐々にはじめてのテーマを任されることも多くなり、素材だけは地上から投げ込まれてくるものの、天の私たちが対話をすることでより深めつつ、統合していく段階になっていきました。そうすると、だんだん違う楽しさを感じるようになってきました』
ソクラテス 『違う楽しさとは?』
立花 『ある程度分かっていることをうまくまとめられる楽しさから、分からない中でどう展開するか自体も、未知数になるワクワク感です。その先の見えなさ自体が、面白く感じるようになりました』
ソクラテス 『コントロールできる楽しさよりも、分からない中で展開していく方が面白く感じるのはなぜですか?』
立花 『コントロールできる時というのは、しょせんは自分の小さな脳においてであり、それはやはりたかが知れているんですね。でも、話が展開することにゆだねてみると、思いもよらぬ話が出てきて、それはとても新鮮な感動を伴うんです。
そして、その展開が見事であればあるほど、うまく計らってもらった天への感謝や、それに対する謙虚な気持ちもわいてくるんです。自分の無知をわかっている<無知の知>というのは、とても清々しいし、謙虚なスタンスなのだと思います』
ソクラテス 『いつからそのように思うようになったのですか?』
立花 『こちらに来て、<あの世でのインタビュー>をはじめてからです。地上時代の好奇心というのは、どこか知的征服欲もありましたし、自分の脳で考え、コントロールしたいという気持ちもありましたから』
ソクラテス 『立花さんは<知の巨人>と言われるほどに本を読み、多くの方にインタビューをして、それを本にまとめておられましたが、それで自分を深めることはできたのですか?』
立花 『ギクリとする質問をありがとうございます。思考基盤を作るとか、現実検討力を養うとか、いろんなジャンルを扱ったので統合力を上げることについては役立ったと思いますが、自分を深めるとなるとどうだったのか…。
一見、対話に似ているように見えるインタビューでも、自分を深めていたかと言うとそうでもなく、自分の観念を崩されるようなことは少なかったかもしれません。いろいろな知識を得て、検証して、共に学んでいくという面はあるにしろ、自分を深めることとは逆ベクトルだったように思います』
ソクラテス 『それだけ多くの人に会って話していたのに、自分を深める対話になっていなかったのは、なぜなのでしょう?』
立花 『話すにしても、理屈や議論が中心で、自分の内面のことではなかったですから』
ソクラテス 『確かに、話題が外的世界のことというのもあると思いますが、実のところは、多くのことを知れば知るほど、自分のことも分かったような気になって、傲慢になっていたところはありませんか?』
立花 『うっ……。核心を突かれている感じがします』(※銃で撃たれたかのように、胸を押さえている)
ソクラテス 『観念に関してはどうですか?』
立花 『無意識的にですが、第2~3層では自分の観念を守りたがっていました。だから自動的に観念に合う情報を拾っているところがあったというのは、こちらに来てクルックスさんとまずは対話させていただいて痛切に感じました。死後世界の科学的証明に、私が見向きもしなかったのは、もはや集合的観念になっている唯物思想を崩されたくなかったからです』
ソクラテス 『しかし、立花さんは臨死体験についてもインタビューされていましたよね?』
立花 『それは第1層(魂)の願いだったのだと思います』
ソクラテス 『最終的に死ぬ直前には、死後世界はあるかもしれないと思えたとしても、でもそれまで何十年も懐疑的でしたよね。一度できた唯物思想という観念は、その頑強さにおいてすごいものだと思いますが、でもそれを握りしめておきたかった動機は何だったのですか?』
立花 『うーん、どんどん深部に迫られている感じがします(笑)』
ソクラテス 『この際、正直に(笑)』
立花 『すぐに思い付くのは、やはり社会的保身で、集合意識の多数派から外れると、仕事も何もできなくなりますから、その社会が受け入れる観念の範囲内でという気持ちは、働いていました』
ソクラテス 『もっと、より深い動機はありませんか?』
立花 『それまでの私の理論構築は、唯物思想の上で成立しているものでしたから、これまでやってきたことと、その背後にある観念を何とか崩さずに守りたいと思っていたと思います。
理論が土台から崩れてしまうような根本的観念の変更だけは避けたかった。自分のこれまで信じて積み上げてきたままの延長上にある理論はOKとしても、それを覆されるのはごめんだ、今まで構築してきた理論体系を崩壊させたくないと思っていたからです』
ソクラテス 『それは、結局のところ、何を守っていたかったということですか?』
立花 『…万能感です。すでにもう分かっていることで、無意識的に万能感を抱いていて、それが保証され、そこから発展・展開していくことには好奇心はわいていたのだと思います。それは、多くの知識を得ていくことで獲得した万能感のある自分を、守っていたかったということです。
だから地上時代の私は、先ほどご指摘いただいたように「自分は分かっている」という傲慢さを持っていた、ということですね。だから自分のそれまでに構築した観念を、そのまま保持し続けようとしていたのだと思います』
ソクラテス 『このことは、多くの知識や科学技術を手にした人類の傲慢さということで、知的な現代人を代表とした無意識的パターンなのでしょうね。この対話のプロセスをどう感じましたか?』
立花 『1つ目の「社会的保身」は、こちらに来てからさらっと意識していましたが、より深い動機や、何を守るためかを聞かれて、2つ目の「観念を守りたい」、3つ目の「万能感を保持しておきたい」ということが出てきました。それらは自分の(第2層の)無意識の、より下層にあったものなので、このような対話で聞かれない限り、自分で気づくことはなかったと思います』
ソクラテス 『それはなぜですか?』
立花 『やはり、都合が悪いことは見たくないから、無意識に押し込めていたのだと思います。いいように解釈したい自分がいたなと思います。そして、傲慢だというのは、最初にご指摘いただいたのでそれを意識化できましたが、そうじゃなかったらたどり着かなかったかもしれません。自分の傲慢性というのは、一番見えにくいものなのだなと感じました』
ソクラテス 『で、その傲慢さを認めてしまった今は、どう感じていますか?』
立花 『スッキリしています! 無意識だからこそ少し曇りがあった第2層の部分がスーッと流れていって、自分がより身軽になったような気分です』
ソクラテス 『本を読んだり、考えることで、頭で分かることも多いですし、直観的に魂で分かることももちろんあります。
しかし、第2層の無意識的な自分というのは、それを自分で分かっていく(=深めていく)ということは、とても難しいのです。立花さん自身も「自分が見たくないから、無意識層に押し込めていた」ということでしたからね。
ですから、自分を深めていくにあたって、その一番のネックである第2層を見ていくには、こうして人と対話をするしか方法はないと私は思うのですが、いかがですか?』
立花 『その通りだと思います。「自分を深めるための対話の効用」が、デモンストレーションの上で実証されたように思います。空海さんはどのように今のやり取りを見ておられましたか?』
空海 『いや~、これをあの時代に地上でやっていたから、ソクラテスさんは毒杯を飲まされたんだな、それ分かるな~と思っていました(笑)』
ソクラテス 『ホントに(笑)』
空海 『とまぁ、冗談はさておき(笑)、これぞソクラテスの対話の真骨頂だと思いましたよ。深めるための質問をどんどんしていき、立花さんも「うっ…」とか言いながらも、正直に答えられたのはさすがです。
このやり取りを、観念を強固に握りしめて執着している地上の人とやろうとすれば、同じように納得するまで10年はかかるんじゃないでしょうか(笑)。それくらい観念というのは固着化している場合が多いし、その背後に万能感から来る傲慢さがあるとすれば、それはもう断固として覆されまいと抵抗するでしょうね』
立花 『それを瞑想で何とかできないのですか?』
空海 『ムリですー!! 瞑想は1人でするものですから、自分の観念に気付いてそれを手放していく、ということには向いていません。感情や自分で見える程度の観念であれば何とかいけますが、今回の対話のように、より深い無意識層に押し込めている、自分でも見たくないものを瞑想で意識化するというのは、なかなか難しいです。それが1人でする瞑想の限界です。
しかし、瞑想の効用もあります。人間はすぐに意識が外に向いていくものですから、内に意識を向けて静かに座っているだけでも、思考が静まって普段は見逃している心の状態が見えてきたりするからです。
釈迦が説いた瞑想は特に、悟りに至るために自分の内に向かう方法として説いていました。つまり第3層(意識的自我)→第2層(無意識的自我)→第1層(魂)へと心を深めていって、悟りに至ることを目指していたということです。
そして瞑想というのは、①僧侶のコミュニティの中で行うこと、②適切な瞑想の師を持つこと、③自我が育って大人になってから、心を見ていく深い瞑想をすること、が条件でした。中でも②は必須で、そのプロセスを開示して、人の目で補い、導いてもらうというのは、同じく内面に向かって行く他業種の指針と変わりません。心の中というのは見えない分、自分だけの目(主観だけ)では、自分の状態を把握できずに危ういからです。
一方、密教では解脱を前提とした上で、<あの世>にポーンとつながるための集中瞑想を中心に行っていました。曼荼羅にしても、それに意識を集中していると魂にビジョンが浮かんできて、真理を一瞬で悟るというものだったのです。
しかしそれは、今思えば万人に勧められる瞑想ではまったくなかったですね(笑)。生きている間に<即身成仏>をする人というのは、かなり霊格が高いごく少数の人に限られますから。悟りの境地に至るには、「仏教で言うとこういう段階があって、密教はこの最後のところを担っているんですよ」と「十住心論」でも説明しましたが、その全段階をやる人もいませんしね(笑)。
だから、自分をありのままに見て深めていくという、釈迦の観察瞑想の方が、現代の方にも応用して使いやすいところはあると思います。しかし今や出家して瞑想だけをする人はほとんどいないでしょうから、仕事などもしながら日常の中でうまく瞑想を取り入れるためには、どこかの宗派に限定されたものより、基本を押さえた一般的な瞑想法を学ばれるとよいと思います。それは「1日10分静かに座り、呼吸を意識してみる」という初歩的なものから取り入れていくだけでも、割合効果があるのではないでしょうか。
なぜなら、忙しい現代ではひっきりなしに外からの情報が入ってきますから、その度に肉体脳は反応し、思考が動いて雑念だらけになりがちです。そうすると、過去や未来に心はあちこちさ迷うことになりやすく、単に呼吸を意識して<今>にいるだけでも、心は鎮まり落ち着いていくからです。瞑想とは、いろいろなやり方があるにせよ、<今>にいる手段ですので、それは最大の効用なのです』
立花 『<今、ここ、私>と言いますもんね』
空海 『それがウリです(笑)。私というのも段階があり、第3層→第2層→第1層の「ありのままの私」を見て受け入れて、そこから学ぶことで心を深めていけば、<あの世の私>にまでもつながります。すると「この世は夢なのだ」という深い悟りに至ることもあります』
ソクラテス 『一般的には、対話だけでそういう深い悟りに至るということはほとんどなく、そこは瞑想の効用なのしょうね。瞑想時のビジョンの効果というのは、たった1回でもかなり強烈な個人的体験になるはずです。
それを対話によって人と共有し、どの次元のものだったかを意識化していくのは、今度は対話でしかできません。瞑想の中で体験したことは、内的体験として外には見えないものなので、他者の目があった方が安全だからです。「瞑想体験と対話による意識化」という、その2つの良さを組み合わせると、なおよいのでしょうね』
立花 『なるほど、組み合わせて利点を生かし合うのは、良い方法ですね。対話の限界というのは、他にもあるのでしょうか?』
ソクラテス 『あります。表層的なところで話を流したり、相手に話を合わせたりしている場合、自分を深めていく対話にはまったくなりません。そういう意味では、日本人はあまり対話は得意ではないですよね(笑)。
何となくお互いに、直観的に察し合うという文化があるでしょうから、言葉で自分の考えや気持ちを率直に言い合うということ自体、案外少ないのかもしれません。
そして、相手が正直でなかったり、嘘をいう場合も、対話は成立しません。言葉では何とでも言えますので、ごまかす人も結構います。対話をする前提条件として、<正直さ>というのは必須なのですが、現代ではその前提自体が崩れてきているのでしょうね』
立花 『あ、私は、正直さはあったかも(笑)』
ソクラテス 『そこが立花さんの良いところですよね。先ほどの傲慢さも、無意識層にうっすらあったとしても、それが事実認識を歪めるほど強烈なものではなかったのは、やはり立花さんが多くの人と正直に対話されてきて、いろいろな考え方を吸収しながらも、そこから取捨選択して自分を確立してこられたからではないでしょうか?』
立花 『なるほど。このような自分のプラス面も、人との対話で指摘されると、よりはっきりと見えてきますね』
ソクラテス 『意識化するというのは、「言葉にする」ということです。人から言われるにしろ、人に説明をするにしろ、対話で言葉にされること自体が意識化の最適なツールになっているということです。バランス感覚も、人と話すことで育っていきます』
立花 『バランスに関して、もう少し詳しく教えてください』
ソクラテス 『人と対話せずに自分に閉じこもっていると、自分の観念による思い込みだけの世界で生きることになります。今の時代、ネットで何でも代用できて、対面で人と関わること自体が減っていることは、怖いことなのですよ。ネット情報は、自分の興味や観念に合ったものを選びますからね。
人と対話をする機会が失われて、共感性も現実検討力も低い、なおかつ葛藤もできない子も増えています。あれかこれか葛藤することによって、はじめてバランス感覚は養われるようになります。
しかし自分1人でいれば、葛藤はしなくてもよくなります。他者がいるからこそ、相手の欲求と自分の欲求との間で葛藤というのは起こるからです。そのように葛藤できない人は、他者との対話で自分を深めていくこと自体も難しくなりますから、今や深い対話自体が成立しない時代になっています。これは脳の発達とも関わる深刻な問題なのです』
立花 『他者との対話には葛藤がある。確かにそうです』
ソクラテス 『同調したり、合わせたりしているだけであれば葛藤はありませんが、人と真剣に向き合うと、たいてい考え方や感じ方や観念の違いによって、お互いの間に葛藤が生じるものです。
しかしそのプロセスを乗り越えて、お互いがなぜそう思ったかを対話していくと、自分と相手との共通点と違いの両方が明らかになり、手をつなげる部分では共感し、違いはお互いに理解し尊重し合うということもできます』
立花 『なるほど、確かに対話によってしか、お互いの共通点と違いを明らかにすることはできませんね。こうして聞いていくと、対話とは本当に深いものなのですね。空海さん、どのようにお聞きになっていましたか?』
空海 『いやー、聞いているだけでも、かなり学びがありましたよ。対話の当事者でなければ、少し客観的な立ち位置になるため、話の筋が鮮明に見えてきますし、その話を自分にあてはめて内省する余裕もありますから。1対1よりもグループの対話の方が、より深く自分を知るためには、適している場合もあるかもしれませんね』
ソクラテス 『そうだと思います。もちろん1対1の対話の方が向いている話題もありますが、どちらが正しいかという話になりがちですし、2人だと意見が違った時点で、話が平行線になるということもあります。
しかし、それがグループでの対話になると、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんと、いろいろな人の考えを聞けて、多角的な視野が担保できます。そうすると、その全体と自分を比べて、「この観念は自分独自のものだな」などと、相対化できる利点があるのです。
もちろん、人数が多くなるほど話が拡散し、表層的になるというデメリットもありますが、適切な人数で、進行役がうまく焦点を絞って話を進めることで、グループ対話の方が学びが深くなるということも大いにありえます』
立花 『瞑想も、グループですることは可能なのでしょうか?』
空海 『ビジョンが出てくるような集中瞑想をする場合は、グループの方が安全です。1人ですると、第2層と共鳴したアストラル界のビジョンを拾ってしまうこともありますが、それをグループで「自分はこういうビジョンが浮かんだ」などと話し合えば、やはり人と比較して自分の特徴が見えやすいからです』
立花 『さて、ここまでかなり多角的な視点から、対話と瞑想についてお話いただきました。最後にそれぞれ、まとめをお願いできますか?』
ソクラテス 『今回は立花さんの感想が、まとめにふさわしいのではないでしょうか?(笑)』
立花 『そ、そうですね(笑)。……自分を深めるにあたり、無意識層深くにある<心の闇>は、人との対話によってしか見ることはできないということが、実感を伴ってよーく分かりました(笑)。
そして、1つの手段が万能なわけでなく、効用と限界がそれぞれある中で、その時々に適したものを選び、または組み合わせていくという発見も、私の中では大きく残っています。お2人とも、本当にありがとうございました!』