因果応報の法則

2013227

『因果応報の法則は、自由意思を与えた代わりにその責任を自らが引き受ける、という摂理です。それによって各人が自分の霊格向上にふさわしい学びを、体験として得ることができます。

 

その体験の場であるこの3次元の地では、その法則がお金の巡り方や人間関係など現実的に見えるように配慮されています。あらゆることに法則が働いているので、単純にこの原因がこの結果に、とは言い切れない面もありますが、しかし現実化したものは何らかの<因>があったということは間違いありません。その現実をどう受け止めるかは、自分が撒いた種をどう収穫するか、どう責任をもって刈り取るか、ということです。

 

現実から逃げることは、自分の蒔いた種の責任から逃げることであり、それはまた新たな<因>となります。その都度、現実をしっかり受け止めて、それに具体的に対応することが、結果を引き受けることになります。その行為自体が、また新たな<因>となり、次の結果を運んでくるのです』

 

 

2015926

「日本でのスピリチュアルブームに関して、何かコメントをいただけますか?」

 

『霊的な世界は、さまざまな表現方法に開花されていますが、本来のスピリチュアリズムと根幹部分がずれていないかを確かめた上で、ご活用ください。そのズレを見極めるには、以下の判断基準に照らし合わせてみてください。

 

1つ目は、<因果応報の法則が根底に流れているか>という点です。この摂理を抜き取ったスピリチュアリズムは、大黒柱のない家のようなもので、軸がないために、もろく崩れていくことでしょう。都合のよい結果を得ること、願いを叶えることに私たちは主眼をおいていません。善良な動機に基づくよき因を踏むようにし、もし結果がよくないことが起これば、そこから自分を省みて学びを得ることを推奨しています。大切なのはよい結果を引き寄せることではなく、魂が向上進化するかどうかです。

 

2つ目は、<誰のためにか>という点です。お手軽に広まったのは、自分が癒されることを主眼としたものではないでしょうか。もちろんその段階も否定はできず、自分が満たされていなかったら、人のことを考えられないというのももっともです。しかし、ご自身の魂が目覚めた後には、<人のために>自分を役立てていくことが、その成熟に見合った行為のベクトルです。ゴールデンルール(自分がして欲しいことを相手にする)というのは、その指標となることでしょう。

 

3つ目は、<自力本願であるか、他力本願であるか>です。自分の外にあるもの、つまり場所や物や人から大いに助けられることはあっても、それに頼りきりにならないことが大切です。何かの手段に心酔することは、他力本願性や依存性を増長させてしまいます。自分の足でしっかりと立つことでしか、内在する力を発揮できません。スピリチュアリズムはあくまで自分で自分を救う、自分で責任を取るという自力本願の世界です。

 

4つ目は、<苦難に対する捉え方>です。苦難を避けて幸せになることが本来のスピリチュアリズムではありません。もちろん無駄に苦しむ必要はありませんが、ワクワクのみを追いかけていては、成長はありません。あなたの魂にとって、より深い学びになるような苦難に対しては、そこから目をそらさずに、果敢に挑まれてください。それを乗り超える度に、愛と叡智で魂はいっそう輝き、神との一体感が増すはずです。

 

本来のスピリチュアリズムとは、自己の霊性を自覚し、神と共に生きるということです。そのためには、あなたの魂の願いを、人のために行いで表していくことです。それが<因果応報の法則>により、結果として自分に返ります。そこから学ぶことによって、魂は向上進化していくのです』

 

 

201858

「<引き寄せの法則>と<因果応報の法則>、<思念の現実化>の法則の違いを教えて下さい」

 

『<引き寄せの法則>とは、その名の通り、結果を自分に引き寄せるという、願いを叶えるための術です。

 

それに対し、<因果応報の法則>は、結果はその原因によるものとして、自らの選択の是非を問うものです。それは自力本願であり、魂の向上を目的とし、責任を取ることで学びを深めていくためのシステムとして機能しています。

 

そして<思念の現実化>とは、その責任という学びが終了した5次元以上で働く法則です。その思念は自分勝手な欲望を叶えるためのものとしてではなく、ワンネス全体にも承認されるようなものでなければ、現実化はしません。

 

それに対し、<引き寄せの法則>は、個人的欲求で結果を求めるサイキックな能力であるといえます。そのため、アストラル界(=地上に働きかけることもある死後階層)との相性がよく、欲を増長させあっていきます。ですので、これは法則というよりは<引き寄せの術>と呼んだ方が適当です。


なぜなら、因果応報・思念現実化の法則は、<今>を軸としているのに対し、引き寄せの術は<未来>の結果に軸があり、それを引き寄せようとしているためです。法則とは、<今>にしか立ち現われないものです。その次元によって立ち現われ方の違いはあっても、<今>という1点においては、すべてがつながるようになっているのが法則です』

 

 

2018116

「<因果応報の法則>は、いつ、どのようにできたのでしょうか?」

 

『歴史の捉え方は何とでも変わるので、確定的な<いつ>ということではありませんが、今の把握からすれば、イブがリンゴを食べた時からです。あの神話は、選択の自由を自我が獲得したと同時に、その結果は自分たちが引き受けることを暗示したものでした。しかしその頃は、「神との約束を守るかどうか」というシンプルな因果応報が示されました。その頃の人類は、それを学ぶ時期にあったためです。


その後、人類の魂は向上進化を続け、しかもアセンションやリセットの支援のために天界(=5次元)以上からも奉仕的に地上に降下する魂が増えてきました。それが『ベールの彼方の生活』で、キリストの霊団が降りてくるヴィジョンに象徴されていたのです。そのような解脱している魂にとって、一律的な神というのは物足りなさを覚えるため、それぞれの霊格における正しさに応じてその結果は働くという、より洗練された<因果応報の法則>へと変更がなされました。


法則というのは、その根本は変わらないとしても、その時代ごとの必要性に応じて、その理解を繊細・緻密にしていき、より核心的な使い方を学んでいけるところがあります。<神を知る>ということは、その叡智の結晶である法則を理解し、その本質をとらえるということであるからです。


霊格を上げていくというのは、その法則を学び、体験しきることで、次のステップの学びに進み、意識の範囲を広げていくという仕組みです。<因果応報の法則>を心から理解することが、3次元を終了して5次元以降に進むための必要条件なのです』

 

 

<まとめ>

 

2018111

『この3次元の地球では、個人の体験を最大限に尊重するために、<選択の自由>が人々に与えられました。神に向かうか、神から離れていくかは、それぞれの選択にゆだねられ、それ自体が大いなる実験でした。どのような選択をしようとも、神はそれをありのままに認めました。それこそが、神の深い愛だったからです。


ただし、そのような選択の自由とのセットで、<因果応報の法則>も与えられました。それは何らかの種を撒けば、その結果は必ず本人に返って来るというものです。つまり動機が魂の願いに叶ったものであればよい結果として、逆であれば悪い結果として現象化するというもので、それはこの現象界を生きる人間としての<責任>を学ぶためのものでした。

 

この法則は、それまでの一神教のように統一的な正しさを押し付けるものではなく、さまざまな霊格(霊的成長レベル)に応じた各人各様の正しさを保証し、その結果から自らを振り返るという、魂の向上進化の道筋を示す法則でもありました。

 

結果を引き受けるだけの霊格と覚悟がないうちは、その因は来世のカルマとして持ち越されるという、輪廻の仕組みも整えられました。向上のペースもそれぞれに委ねられたということです。


まだ若い魂にとっては、その輪廻の中で学ぶ主なテーマは愛(慈悲)でした。個我に分かれた状態で、自分と他者を愛することができるかどうかが、魂の向上進化の基礎的階段とされていたのです。

 

さらに魂が成熟するにつれて、神の叡智の側面も意識化されるようになっていきます。そのような法則を緻密に設計し、厳密に動かしている大いなる存在が、視野に入って来るということです。法則によって立ち現れる、そのような神の叡智に触れると、その見事さに圧倒されずにはいられません。その最たる根本的な叡智が、<因果応報の法則>なのです。


このような<選択の自由を認める>愛と、<その結果が厳密に働く>という叡智がセットで働くことで、個人の体験の尊重と全体への影響のバランスが図られることになります。それは、人類の集合意識が決定的に神から離れてしまえば、人類の大消滅という形でその結果が返ってくるという、<リセットの仕組み>としても、因果応報の結果は働くということです。

 

この<因果応報の法則>は、時間的観念にさえぎられるほど、その結果が出るまでに長時間かかりますが、この法則に留意して毎日を過ごすようになれば、その返りは早くなって、神との対話がリアルタイムで可能になります。

 

そのような意味では、この世は神が見ている夢として、一方的に創られている訳ではなく、その夢の中で自分がどう行動するかによって、出演者として共同製作しているとも言えます。<因果応報の法則>を信じてそれに向き合うということは、神と対話しながら生きるということなのです』

 

 

 

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