心の三層図
(書籍:「死の向こう側 我々はどこから来てどこへ行くのか 本から学ぶスピリチュアルな世界」からの抜粋)
1.心の三層図とは
まずは、次の図をご覧下さい。これは精神医学者のカール・グスタフ・ユングが想定した心の構図です。
このうち<意識>というのは、簡単に言えば、自分でも気づき、人にも見せている心の部分で、<無意識>というのは、自分では気づかずに、それゆえ人にもけっして見えないような心の部分です。この無意識を最初に提唱したのは精神分析学者ジークムント・フロイトですが、彼の場合は、この図で言うならば<個人的無意識>までしか想定していませんでした。それに対して、新たに<普遍的無意識>というのを付け加えたのがユングです。
この<普遍的無意識>とは何かを説明するのはなかなか大変なことなのですが、簡単に言うならば<古今東西を通じて人類に共通な無意識>と言えます。例えば、世界各地の民話や神話、おとぎ話の類いを調べていくと、それぞれまったく連絡がなかったはずの地域に、同じような内容の話が見られることがあります。また、神経症患者を中心に診ていたフロイトとは異なり、ユングは統合失調症患者の治療にあたることが多かったなかで、ある患者の妄想内容が読んだはずのないギリシャのミトラ祈祷書の内容とまったく同じである、という体験もしました。さらに、ユング自身が人生の転換期にさまざま不思議な体験をし、それらをすべて含めて考えると、<普遍的無意識>というのを新たに想定せざるを得なくなったのです。彼の没後に公表された『ユング自伝』(みすず書房)は、そのように変化していくプロセスがありのままにつづられている本ですので、興味のある方はぜひご覧下さい。
ユングは意識の中心を<自我>と呼び、意識から普遍的無意識までのすべてを加えた上図の球の中心を<自己>と呼びました。人は一般的に人生の前半は<自我>を中心として生きていますが、人生の後半に差し掛かった時に、その中心を<自我>から<自己>へと移し替えていくことが望ましい、とユングは述べています。それは、自ら目標を立てて、それに向かって邁進する生き方から、流れに身を任せて生きるという生き方に変える、とも言えます。私自身、確かに人生の後半に差し掛かった40歳前後にそのような変化が起こり、『則天去私という生き方』という本のなかで、その変化がどのようなものだったかを綴りました。
ユングは高名な精神科医でもあったので、<魂>や<霊>という言葉を避けて、あえて<自己>という言葉を使ったのかもしれませんが、古今東西あるいは宇宙ともつながっている中核という意味では、本来は<魂>と言った方がわかりやすかったのではないかと思います。それゆえ、私は次のような三層の図で心を考えるようになりました。
ここで言う第3層の<意識的自我>とは、先ほどの説明でも述べたとおり、自分でもこういう人間だとわかり、人にもそう見せているような自分、要は社会的な自分です。次の第2層の<無意識的自我>とは、フロイトの言う<個人的無意識>とほぼ同じですが、自分では認めがたい感情を抑圧したり否認したりしている自分、例えば怒りや恨みや不安などのネガティブな感情が渦巻いていて、そうした感情に駆られて動いてしまいがちな自分です。そして、最も奥深くにある第1層の<霊的自我>は、死後も存続して転生を繰り返しながら、永遠に魂の向上進化を図っていくような自分、今生においても魂の課題や願いをもって生まれてきた、心の中核の部分とも言えます。そして、この部分がユングの言う普遍的無意識、古今東西の人類や自然、さらには宇宙に至るまでのすべてのものとつながっている自分、と想定されます。
以上の<心の三層図>にしたがって、これまで見てきた13冊の本の内容をまとめながら、今、私たちはどのように生きたらよいのかを考えてみましょう。
2.地球に生まれてきた意味
私はあるときから、この地球に生まれてきた意味は、肉体の衣をまとっているがゆえに、それぞれの霊的成長度、つまり第1層の霊的自我が見えないまま、家庭や学校、職場などで互いに密接に関わっていることにあるのではないか、と思うようになりました。
例えば、今生で親子として共に暮らすという関係において、非常に霊的成熟度が高い子どもが、あえて低い親を選んで生まれてくる場合があるかもしれません。その一方で、非常に霊的成長度の高い親が、霊的成長度の未熟な子どもを育てることによって、多くを学ぶということもあります。いずれにしろ、どのような親や環境のもとに生まれてくるかは、自分で選び、自分に課したもので、それは前世のカルマを果たすためである、と言われています。しかし、それが自分で選んだことであっても、生まれたときにはすべて忘れてしまうということです。また、相手に関しても、第3層や第2層までは身近にいると見えるにしても、第1層の魂の願いまでは見えないことが多いものです。おそらくそれは、互いに見えない方がより大きな学びになるからかもしれません。最終的な回答が分かった上で問題を解くよりも、やはり正解がわからないまま問題を解いていく方が、はるかに大きな学びになるからです。
一方、肉体の衣を脱いで霊(本来の姿)に戻った時には、私たちはそれぞれの光(霊的成長度)に応じたところにしか行けない、とも言われています。ですから、霊界では自分と同じレベルの霊にしか普通は接することができないし、そこでの霊的進化も一歩ずつだということです。しかし、この地上では、本来はとてもご一緒できないような高いレベルの方々から、油断大敵の低いレベルの人々まで、さまざまな霊的成長度の人が混在しています。しかも、お互いのカードは伏せて、それぞれの霊的成長度がわからないまま、家庭や学校や職場で緊密に関り合っているのですから、それはなかなか大きな修業になるはずです。そうした中で、あの世では到底できないような<飛び級>をする人もいれば、知らぬ間に<大転落>してしまう人もいる。そういうチャンスと危険性をはらんでいるのが、この地球で学ぶ意義なのではないか、と私は感じています。
3.選択から一致へ
さて、ここで少し違った観点から心の働きを考えてみましょう。これまで、私の専門分野であった心理学を用いて、人の心の働き方を説明するときには、よく以下のフロイト理論を使っていました。
私= 欲求 + 現実 + 良心・道徳観(超自我)
何をしたいか 現実的に可能かどうか 人間としてすべきこと
何をしたくないか 内的要因と外的要因 すべきではないこと
このフロイトの理論に従うなら、人はその時その場に応じて、自分の欲求に従うか、現実に従うか、良心に従うかを、意識的あるいは無意識的に選択している、ということです。そして、<バランスのいい人>あるいは<成熟した大人>というのは、ある時は自分の欲求に従い、ある時は現実に合わせて自分の欲求を抑え、ある時は良心の声に従って行動する。それをその時々で柔軟かつバランスよく選択できる人、ということになります。心理学者としての私は、母親講座などで子育ての話をするときには、そういうバランスのいい人間に育てることが子育ての目標である、と説明してきました。
しかし、ここ20数年間は心理学に加えて心霊学を学び、さまざまな体験をしてきた結果、以下のように変わりました。フロイトは、上記の<良心あるいは道徳観>を<超自我=自分を超えるもの>と名付けていましたが、それを第1層の霊的自我、そしてそこでの<魂の願い>と考えるならば、以下のように<三者の間での選択>というより、<三者の一致>ということになります。なぜなら、<自らの欲求>を<魂の願い>に一致させていくならば、<現実>は結果としてついてくることになるからです。つまり、第3層の世間体や表層的な欲求、そして第2層のさまざまな感情に流されずに、日々第1層の<魂の願い>に耳を傾けて、それに従って生きていくならば、現実も必ず付いてくる、ということなのです。そして、それこそが<善因善果>つまり<因果応報の法則>なのではないかと思われます。
4.<因果応報の法則>が働くのは
以上をもう少し詳しく説明するならば、実は三層図のそれぞれの欲求は、まったく異なっていることも多いのです。特に、第3層の表層的な自我が願っていることと、第1層の霊的自我が願っていることとが真逆になっている人は、現代は意外に多いのかもしれません。例えば、簡単に言うならば、第3層では出世を願っている人でも、第1層では家族や身近な人を大事にして生きたい、と願っているかもしれません。そしてここから肝心なことになりますが、この<因果応報の法則>は、<意識的自我>でも<無意識的自我>でもなく、<霊的自我>にとって正しい選択や行動であったか、ということに対して働くのです。
自分は正しい選択をしたつもりでも、それは第3層の<意識的自我>、つまり社会的・世間的な意味での正しさであって、第1層の<霊的自我=魂の願い>にとっては正しくない場合も多々あります。また、第2層の<無意識的自我>での感情に駆られて、知らずに<霊的自我>に反する選択や行為をしてしまうことも、一般的にはよくあります。人間は選択の自由を与えられているので、どのように選択し行動しても自由なのですが、その結果は必ず当人に返ってくる。つまり、もしそれが第1層の<霊的自我>にとって正しい選択、正しい行動であったなら、さまざまな天の助けも働いて望ましい結果になるけれど、それが第1層に反するものであるならば、不本意な結果を引き受けなければならない、それが<因果応報の法則>ということです。ですから、以上を総合して考えるならば、自分の奥深くにある第1層の声に耳を澄ませて生きることが肝要だ、ということになります。
5.<魂の願い>とは?
さて、それでは<魂の願い>とはどのようなものなのなのでしょうか。それは、一言で言うならば、おそらく<米国スピリチュアリスト連盟の八箇条の宣言>の第六条にあった「われわれは人生最高の道徳律が“汝の欲するところを他人にも施せ”という黄金律に尽きることを信じる」ということになるのかもしれません。“汝の欲するところを他人にも施せ”というのは、現代の競争社会、利潤追及主義の世界にあっては、<偽善>と考える人も多いと思います。しかし、遠くはビッグバンから始まって私たちが今ここにいることを考えるならば、本当はすべてのものがつながっている、ということになります。スピリチュアリズムの教えの基本は「私たちは神の中にいて、私たちの中に神がいる」、言い換えるならば「神はあなたで、あなたは神である」とするならば、それはまた同じように「私はあなたで、あなたは私である」とも言えるのです。そうなると、本当に「情けは人のためならず」で、「人のためにすることは自分のためでもあるのだ」ということになります。
先のフロイトは、「人間は自分が思っているよりも、はるかに非道徳的である。」と言っている一方で、「人間は自分が思っているよりも、はるかに道徳的である。」とも言っています。最初の言い方は、第2層の<無意識的自我>に抑圧された怒りや恨みなどの感情やさまざまな欲望を想定しての言葉ですが、後者はフロイトの言う<超自我>、ここで言う第1層の<霊的自我>を想定しての言葉になります。
確かに私自身これまでの数多くのカウンセリングの中で感じてきたのは、心はサンドイッチのようだ、ということです。表面的には善良そうに見えても、実はその下にはドロドロした感情が渦巻いていることが多いものです。しかし、それをさらに深く掘り下げていくならば、最終的には善良で前向きな部分が現れてきます。私たちは、本来、神や仏を宿して生まれてきているというのは、そういうことを言っているのだろうなと思います。
6.<霊格>によって異なる正しさ
ただし、この世での学びをさらに複雑にしているのは、<霊的自我>における正しさというのが、それぞれの<霊格>つまり霊的成長度によって異なる。それゆえ、百人いたら百通りの正しさがあるということです。ですから、ある人にとっては正しいことでも、他の人にとっては正しくない、ということもたくさんあります。もちろん、法律で定められているような万人共通の善悪の基準というのもありますが、それさえも時代や国や民族によってかなり異なっています。ましてや、人生におけるかなり微妙な判断となると、本来は万人に共通の正しさなどはない、ということになります。
そういう意味では、スピリチュアリズムにおいては、善も悪も絶対的なものはなく、極めて相対的なものになります。つまり、ある霊的レベルの人にとっては正しいことでも、より高いレベルの人にとっては正しくない、ということもあるのです。例えば、戦争という事態において、お国のために戦うことが正しい人もいれば、戦争反対のために戦うことが正しい人もいる、という具合です。それが一神教で言われているような唯一絶対の戒律を守ることとは、決定的に異なるスタンスです。
ですから、その人にとって何が正しいかは、他人が知るところではありません。その人の霊的成長度は、外からはわからないからです。しかし、自分にとっての正しい選択は、自分の深い心、つまり第1層に耳を澄ませば、本当は誰でもわるはずだ、とも言われています。「胸に手を当てて、よく考えてごらんなさい」と言われるのは、そういうことなのではないでしょうか。にもかかわらず、人はいろいろな言い訳をしたり、理屈をつけたり、人のせいにしたりして、それを無視してしまうことが多いものです。それについて、先に紹介したタイタニック号のステッド氏は、霊界通信の中で次のように述べています。
7.良心の声
「この地上生活において、やって良いことといけないことについては、賛否両論がよく闘わされます。やりたくても控えねばならないことがあるかと思うと、思い切りよく実行に移さないといけないこともある……一体なぜでしょうか。
“そんなこうるさいことに拘泥わっていたら商売は上がったりさ″と言う人もいるでしょう。大っぴらには言わなくても、内輪ではそう言っているに相違ありません。なぜいけないのかが理解できないわけです。しかし、理由はちゃんとあるのです。しかもそれは、常識的に考えれば容易に理解できることなのです。いささか固苦しくなりますが、私はこれを因果律の問題として位置づけたいのです。
宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密さをもって計画されました。その究極の目的は、各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。そのための摂理は厳然としています。不変絶対です。各自は、良心という本能によって、今自分の行なっていることが摂理に適っているか反しているかを直感しております。交通取り締りのお巡りさんのような人から教わる必要はないのです。
もちろん、自分自身を欺いて“これでいいんだ”と主張することはできます。しかし、そう主張しながらも、心の奥では本当はいけないのだという意識を打ち消すことができずにいます。私は敢えて申し上げます。この事実に例外はない、と。つまり良心は必ず知っているということです。ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものなのです。これは深刻な意義をもつ問題であることを認識してください。
この種の問題を大抵の人は‟善悪”の観点からではなく“損得”の勘定によって判断しております。動機の善悪の区別がつかないわけではありません。ちゃんと識別できるのです。そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交上の面子から、因果律がめぐりめぐって生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。
実に残念なことです。が、死後の世界との関連からいうと“残念”では済まされない、可哀そうな、あるいは気の毒な事態となっていくのです。不快な思い、辛い苦しみのタネを蒔いていることになるのです。火炎地獄などというものは存在しません。精神的苦悶という、みずからこしらえた地獄が待ちうけているのです。」
結局、<死後の世界>を前提とした生き方、そしていつ大災害が起きても後悔のない生き方というのは、常に第1層の<魂の願い>を意識しながら、それに従って生きていくこと、という結論になるのではないでしょうか。