各階層における光とビジョンの違い
1.各階層における光の違い byコナン・ドイル
2021年10月13日
「死後、アストラル界の途中で引っかかり、そこを抜けて最上層の光の中から、第2の死を経て精神界へ行った時、そこは輝きがまったく違ったということですが、それについてお話を聞かせてください」
『死後の世界は、階層によって輝きがまったく違いました。アストラル界の低層は暗くじめじめとし、中層はねっとりとした雰囲気があります。そこから上層に行くと、晴天の草原にいるかのような解放感と、心が躍る感覚、そしてたとえ自己満足であっても愛と呼べる感情がありました。ですので、そこがキリスト教でいう天国だというのは、とても納得しました。
しかし、そこまでは外在神として自分の外に神を見出す観念の中にいますので、光といっても外の世界が明るいという感じでしょうか。ですからその光は、自分のフィルターを通して、多少ぼやけて見えていると言えるかもしれません。明度も最高レベルだと思っていても、実はそれほどでもないのです。
そこから精神界に行った途端、夢から覚めたようにスキッとした気持ちになりました。それは、アストラル界が<虚界>で、精神界からが<実在界>だと言われるのも納得するほどの違いでした。精神界では自分の魂の光そのものが見え、その光に包まれます。アストラル界とは全く違うクリアさで、霧が晴れたようなスッキリした気分になるのです。
そして天界に行くと、もう光しかない、光そのものの中に溶け込んでしまうかのような明るい光に包まれ、感動のあまり泣き出してしまうほどの歓喜がやってきます。そこに来てまた思うのは、「精神界までは夢であり、ここからが実在界だったのか!」という感覚です。
さらに7次元に行くと、今度は「光の根源」と言ってよいような<漆黒の闇>になります。闇といっても、アストラル界の闇(影)とはまったく異質のもので、クリアな闇であり、それは光の核の中にいるような感覚なのです。そしてこの時もまた、「あぁ、5次元までは夢の世界であり、実在界とはこちらのことだったのだな」と感じるのです。
そのように1つ次元が上がる毎に、「ああ、これが本当の実在界であった」と思う感覚が、何次元にいっても続くようです。つまり次元を上がるというのは、それまでいた次元の観念でできた夢から覚めることなので、上の次元に行く度に「夢から覚めた感じだ(今、新たに来た次元が実在界のような気がする)」と思うことになるのでしょう。(ただし、幽界・アストラル界はそうはならず、3次元の夢の続きですが…)
さて、今、<新しい地球>ではその逆のプロセスが進んでいます。夢の舞台を皆で作り、その中で意識をビジョン化、言語化していくことで、その次元なりの夢を立ち上げているところです。いろいろな次元に、それぞれの魅力がありますが、5次元の世界は光あふれるビジョンでの創造がなされています。
その光は、アストラル界の上層の光とも精神界の光とも異なる、より洗練された光です。死後階層は、下から上にいくに従って、「濁った光から透明度のある光へ」、「外を照らす光から、内から輝く光へ」、「より深い愛の光へ」と変化していくのです。』
2.各階層におけるビジョンの違い by G.Ⅴ.オーエン
『霊的階層における光の話が出ましたので、私からは階層ごとのビジョンの話をしたいと思います。アストラル界→精神界→天界へと上昇するに従って、それぞれの階層から送られてくるビジョンが、どのように地上の人々に見えるか、という話です。
アストラル界の下層のビジョンは、排泄、性欲、食欲をはじめとして、あらゆる感覚的な欲望を満たすものであり、たいていは下品で、時におどろおどろしいものもあり、色合いも暗くどんよりと濁っています。しかしアストラル界上層階になれば、光が射してくるようなビジョンも作られますが、その光のビジョンは感情には作用しても、魂にまでは届きません。
ですから、アストラル界からのビジョンは第1層の記憶として鮮明には残らずに、すぐに忘れていくものが多いのです。それにも関わらず、その瞬間のそのビジョンの生々しさは妙にリアルなことから、心にべったりと張り付いてしまうことがあるのです。
それが精神界のビジョンになると、爽やかで透き通った色合いに変わります。明度が上がるために、爽やかな印象さえ伴います。私の本(注:『霊界通信 ベールの彼方の生活』全4巻、近藤千雄訳)で述べていたビジョンは、発信元としては天界からのものでしたが、1~3巻あたりまでの具体的なビジョンは精神界におけるものも多くあったと思います。
さらに天界からのビジョンとなると、それは神話のように象徴化されたものになる傾向があります。究極的には、何かのマークだけというビジョンさえありますので、その意味するところは幾通りもの深い意味が込められている場合があるのです。
私の本の中でも、だんだんとアクセスする階層は上がっていったのですが、最後の「キリスト率いる大群が地上に降りてきているビジョン」などは、雲に乗っておりてくる神話のような象徴的表現でした。そのビジョンは、とても神々しい品格がただよい、人間味が薄れていることも特徴でした。光が降りてきているのを、象徴的に可視化して表現すると、そのようになるものだったからです。
また人類の集合意識にとって必要なものが降りてくる場合、個人の力で操作できるということはありませんでした。そのようなビジョンは魂に鮮烈に印象付けられ、1回見ると生涯忘れられないものになるのです。
私が生前に見たビジョンも、何年たっても色あせないもので、何度思い出しても魂が感動するところがありました。そのため、これは個人的に与えられたものではなく、人類全体に降ろされたものであろう、と判断した次第でした。
ビジョンは、絵を見る目を持ち、霊的階層の特徴を心得ている方であれば、それがどの階層から来たものかは、割合わかるのではないでしょうか。そこににじみ出る品格、統合性、象徴性などが備わっていれば、地上で絵を見た時と同様に「美しい」と感動するものだからです。「美しさ」が、高次からのビジョンであるかどうかを判断する、最も有力な基準になります。
しかし、昨今は地上の絵画のレベルは下がり切っており、美しいものよりも、アストラル界の混沌とした下品さ、幼稚さ、ちぐはぐさが目立つ絵が、世にあふれる時代となりました。そのように退化した絵に慣れていると、アストラル界の上層からのビジョンであっても、充分に美しいと感じてしまいます。
ですから、自分が見たビジョンが、どの層から来たものかを判別するのは、難しいと思った方がよいと思います。むしろアストラル界上層からのビジョンの方が、自分の潜在化している欲望をうまく刺激してくれ、「これは本物だ」と思いやすい傾向もあるためです。
ですから、メッセージだけでなく、ビジョンが浮かぶという霊媒の方も、審神者のようなパートナーに相談される方が安全だといえるでしょうね。』