アストラル界について
1.死後階層図におけるアストラル界の位置づけ
まず、アストラル界が<あの世>の階層の中で、どこに位置づけられているかというのを、『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』(アイヴァン・クック編、大内博訳、講談社、1994年)に掲載されている、<死後階層図>を基に確認してみましょう。
コナン・ドイルは『シャーロック・ホームズの冒険』の著者として有名ですが、晩年はスピリチュアリストとして世界中を講演して回っていたことは、あまり知られていません。この本は、彼の死後に<あの世>から送られてきたメッセージをまとめたもので、それによって初めて死後の階層が明らかにされた、とも言われています。
その本の中での解説は、かなり長くて分かりにくいものだったので、改めて簡潔な解説をお願いした結果が、以下のメッセージでした。
2018年1月21日
『これは、死後誰もが通る霊的世界の見取り図です。階層式になっているのは、同じ波調を持つ霊が寄り集まっているためで、肉体を脱いだ後の世界とは、自分の波長よりも高くても低くてもなじみが悪く、霊はそれぞれに適した位置に居ることになります。
そして心の中で思っている世界が、そのまま自分のいる局面の様相ともリンクしていきます。例えば、極悪な心を持っていれば、住む世界もそのような暗い環境になるという具合にです。下層から上層に行くに従い、暗黒でじめじめした世界から光明のあるさわやかな世界へと変わっていきます。大きく分けて、アストラル界→精神界→天界となっています。ここまでが地球圏を表します。以下、各層を具体的に説明します。
◎アストラル界(幽界)
アストラル界の低層は、欲望が渦巻き、争いが絶えない世界で、そこからだんだんと向上の意欲が芽生え、最上層のサマーランド(ブルーアイランド)は、人によっては天国とも感じられる明るい局面であるといえます。
アストラル界は、主に地上時代の欲望や感情を消化していくことが目的の領域です。地上に近いこともあり、さまざまな地上とのコンタクトがなされており、低い層では野蛮な欲望のはけ口として、高い層では人の役に立ちたいという欲求から、地上への関与もなされています。地上でのさまざまな憑依現象や低レベルの霊言などは、このアストラル界からの影響によるものが多いといえます。
◎精神界
アストラル界を抜けると<第2の死>を迎えて、幽体を脱いで霊体となって次の精神界にいきます。なぜそう言われるのかといえば、そこでもう一度<死>を通って目を覚ましたほどに、まったく違う霊的世界が広がるためです。それはアストラル界が<虚界>、精神界からが<実在界>だと言われるほどの差で、それまでは単なる生前の想念や感情の残骸を、夢見ていたかのように感じられる、ということです。
精神界では主に個人的・集合的観念を消化していきます。活動としては、地上と天界をつなぐためのさまざまな奉仕活動を<類魂>としても行いながら、魂の学びを深めていきます。そして、精神界の最後の局面では、今生だけではなく過去生をも含めた総合的な<人生回顧>を行って、地上に再生するのか、それとも地上への輪廻転生を終了して解脱し、天界に進むのかの決定がなされます。
◎天界
天界では、いよいよワンネスの世界に入っていき、地上の創造活動に貢献します。5次元の世界同様、個とワンネスの両方の要素を同時に体験しながら、美と調和の中でそれを開花させていきます。その上の宇宙界ともつながり、多くのインスピレーションを受けながら、それを地上に下ろしています。芸術、科学、宗教などに多大な影響をもたらし、地上界のイデアとして機能しているのが天界です。
以上の階層図の下層から上層に行くことは難しいですが、上層から下層へは自由に行くことができ、常に向上のためのサポートが行われています。個々人の成長のペースは本人次第ですが、それを見守り関与する霊は必ずいて、相互に助け合う仕組みとなっています』
2.アストラル界の構造
2019年5月11日
『アストラル界の構造というのは、巨大なアリの巣のように多くの小部屋が枝のように広がっており、そのすべてが通路でつながっています。下層ほど暗くじめじめとし、上層に行くに従って少しずつ明るさを感じる部屋が増えていきます。
部屋といっても閉ざされた空間ということではなく、波動の同調作用によって同質のものが寄り集まって、一つのグループのように密集しているということです。その中にいる各霊にとっては、自分のいる世界(部屋)しか見えていませんが、俯瞰してみるとさまざまな部屋があるにしても、全体的には下層から上層に向けてグラデーションのように明るさが増していく、層構造としてとらえることができます。
ここでは、それぞれの階層の様子を、最下層から順に見ていきましょう。
1)地上層(幽界)
ここは私たちが生きている地上世界とまったく同じです。まだアストラル界にも入っていない、いわゆる<死>の自覚のない霊が、憑依できる肉体を求めてさまよっている段階です。
そこは、現代の夜の街そのものなのですが、彼らにとっては覚せい剤中毒になったような感覚で、いろいろなものが暗くかすみ、空間もゆがんで見えています。はっきりとモノが見えていない上に、思考も停止している状態で、何がどうなっているのか分からないような混乱状態のまま、地縛霊や浮遊霊となって徘徊しているのです。
彼らが欲しいのは肉体ですので、地上で自我境界の弱い人に憑依することによって、その人のオーラの中で再び共に人生を歩みだすことになります。一人に対して、何人もの霊が憑りついている場合もあります。そのような時は、憑依している側もされている側も、まさか自分がそのような状態にあるとは自覚していません。
憑依されている側は、自我の機能が完全に失われることもあり、訳が分からずに鬱々と過ごしているうちに、場合によっては無意識のまま自殺をしたり、凶悪犯罪を起こしたりすることもあります』
以上は、2019年5月の時点での説明であり、「死後階層図」も百年ほど前の状況を反映したものでしたので、地上層(幽界)はアストラル界の最下層に位置付けており、その説明は「より密度の濃いアストラル界。欲望、強烈な肉体的な欲望、憎悪、恨み―地獄」と書かれています。確かに当時の幽界というのはそのような状況だったものと思われます。
しかし、現代の様相はそれとはかなり異なっているようなので、改めて以下のように質問してみました。
補足説明:現代におけるアストラル界と地上層(幽界)の関係
2021年9月20日
Q「現代におけるアストラル界と地上層(幽界)の関係について、改めて説明をお願いします」
A『正確に分類するならば、アストラル界は、本来は<あの世>に行ったことを自覚している霊が存在する層であるのに対して、幽界はまだ<この世>にいると思っている霊が存在する層です。つまり、まだ地上に滞留している霊が構成する層であるために、<地上層>と言われていました。
およそ百年以上前までは、<死後の世界>はある程度一般的に受け入れられていました。そのような時代は、死んでも幽界をさまよっている地縛霊や浮遊霊が一部いたとしても、多くは速やかに死んだことを自覚してアストラル界に行き、未消化だった感情や欲望を浄化するという<魂の向上進化>の流れが健全に機能していました。
ところが、近代化を後押しする物質科学が急速に発展して、唯物主義・科学主義的な観念があっという間に広がると、「目に見える肉体がすべてで、死んだら無になる」と思う人が、圧倒的多数を占めるようになっていったのです。
その結果、実際には死んでもまだ意識があるために、生きているつもりでいる霊が、幽界にどんどんたまっていきました。しかも相次ぐ世界大戦で、心の準備がないまま亡くなる人も増えていって、幽界は一気にその層を厚くするようになってしまったのです。
それを危惧した天界からは、霊的世界の科学的証明・心霊治療・霊言などの心霊学をはじめとして、心理学における無意識層や、量子物理学における素粒子など、見えない世界を実証する動きが出てきました。しかし、特に<死後の世界>の科学的証明に関しては、社会的効果はほとんど得られないまま、次第に抹殺されるようになりました。
その結果、ますます唯物的観念が強化されて、かなり知的な人までも(死んでも意識があるために)幽界に留まるようになり、今やそこが大渋滞となっています。最初はただ混沌とした状態でしたが、アストラル界と同様に波動の違いによって次第に6層ほどに分かれました。しかも昔は低層の霊が多かったのが、今や非常に知的で優秀な人もまだ幽界の上層部にいるという、何とも奇妙な状態になっています。
また、そのような賢い霊たちは、それまでのように地上の人に身体ごと憑依するのではなく、第2層(幽体脳)の無意識層に入り込んで、そこから巧妙に操作する方法まで編み出しました。そうすると、憑依されている本人は分からないまま、それが自分と思い込んでその憑依霊と共存する、ということも起きてきました。
それを見ていたアストラル界の霊たちは、そのように混沌とした地上に輪廻転生をしていくよりも、自分たちも幽界の霊たちと同様に、地上の人たちを裏から操作していた方が、ラクだし楽しそうだと思うようになりました。その結果、アストラル界と幽界の区別も次第に曖昧になっていき、その上、幽界の霊に憑依されていた人たちがそのま死を迎えると、本人はアストラル界に進んだとしても、その憑依霊は幽界にいるために、どちらも自分だと思って混濁した意識のままでいる霊も増えていったのです。
以上のような状況によって、現代における幽界とアストラル界はほとんど混合した状態になっていたために、私たちのメッセージでは<アストラル界=幽界>とお伝えしていました』
そのため、以下の表記は一応アストラル界となっていますが、ほぼ幽界も重なっているということですので、幽界の階層でもあるということでご覧ください。
2)アストラル界の最下層(第6局面)
『ここは、一般的に言われる地獄のことで、強い恐怖と殺意、怨念や恨みが立ち込める、絶望感さえも感じる階層です。不潔でじめじめとしたかなり濃い暗さの陰鬱としたところで、そこにいる霊たちの目には、その様相は本人にとっても最も嫌悪すべき状況として映ります。
化け物に襲われて逃げまどっている霊もいれば、ずっと戦争を続けていて殺し合いをしている霊、かといえば寄生虫に体を蝕まれている霊や、人肉を食べ歩いている霊までいます。
また、その一角には自殺をした霊が凍結状態でいる、寒々とした部屋もあります。そこでは意識が混濁したまま、自殺場面を繰り返していたり、苦しみと絶望の中に閉じ込められて、身動きできない状況になっていたりします。
3)アストラル界の下層(第5局面)
ここは不安と怒りと貪欲などの感情がある層です。環境としては冬の厚い雲がかかった夕方の、薄暗さと寒々しさが感じられるところで、そこで行われているのは盗み、裏切り、虐待、破壊的な暴行や性行為、自虐行為などで、攻撃性や貪欲さもあふれています。
その根底には落ち込みや悲しみなどもありますが、思考は短絡的で自分のことしか考えられない状況です。ずるさを全開にして相手をだまそうと画策している霊、自分のお金を守ろうと必死に隠している霊などもいます。
4)アストラル界の中低層(第4局面)
ここは、疑い、困惑、嫉妬、孤独、わがままなどの感情がある層です。環境としては、秋の曇り日のような明るさで、カラカラとした砂混じりの風が吹くような、乾いた寒さが感じられます。
猜疑心にかられてウソをついて自分を守る霊や、何でも思い通りにしたいので饒舌に話して周りを支配しようとする人、またどうしてよいか分からない混乱の中にある人や、地上ではまったく意識しなかった嫉妬心が沸き上がってきている人などもいます。
5)アストラル界の中層(第3局面)
ここは、無気力や休息したい気持ちなどにとらわれている層です。それほどネガティブな気持ちはなくても、心はたいそう疲れていてエネルギーがわいてこない状態、あるいはすべてが面倒臭くて、さぼりたい気持ちがわいている状態です。
部屋もいろいろあるので、この階層を有効に使って、生前の傷付いた状況からの癒しや、地上の激務から解放された休息の場として、またショックを軽減するための避難所としても活用されています。一人になれるよう小部屋がたくさんあり、その明るさは部屋によってそれぞれ違います。
6)アストラル界の上層(第2局面)
ここは、喜び、心地よさ、充実感、(コントロールを含め)さらなる欲求などの感情がある層です。春の陽気のような明るい環境で、ポジティブでエネルギーに満ちた顔をしている霊が多くなり、ちょっとした操作性や企みの心をもって地上の人と共にビジネスでお金儲けをしている霊たちも多くいます。
地上の人々が思い通りに物質を引き寄せ、<快>を感じるようにさせることによって、自分も心地よくなり満足感を得ています。行き過ぎれば快感中毒にもなり得るような、飲食行為、快楽的性行為や、またゲーム依存も、この層とのつながりがそれらをもたらしている場合があります。
占いや最近の霊言などは、この層または次の最上層の霊とつながって情報を得ている場合が多いといえます。
7)アストラル界の最上層(第1局面)
ここは、向上心と他者への奉仕精神や愛情が芽生えている層です。スピリチュアルな本ではサマーランドやブルーアイランドと呼ばれてもいますが、キリスト教でいう天国とも同等のところで、精神界や天界と比べると明度は低いのですが、それでも地上よりもたいそう居心地のよいところです。
心は希望と平和に満たされていて、それを他者と分かち合い、よりよい関係を築きたいという意欲があり、喜びや楽しみも享受しています。感情的には日の出の瞬間を見ている時の感動に似ています。
この層の霊からの地上への関与もありますが、それは悪意によってではなく、基本的には役に立ちたいという気持ちから行われています。ただし、あくまでも自己満足の域は出ないのですが、それでも手助けしたいという気持ちは本当です。
心は希望と平和に満たされていて、それを他者と分かち合い、よりよい関係を築きたいという意欲があり、喜びや楽しみも享受しています。
8)現代のアストラル界の特徴
以上のように、アストラル界は最下層から最上層まで、ありとあらゆる感情層がありますが、すべての霊に共通するのは、<因果応報の法則>を理解していないということです。そのために悪意で人を操作しようとしたり、あるいは善意であっても人の人生に踏み込んで、いらないお節介をやくということが起こっているのです。
まして現代の問題は、アストラル界が死後に行くところというよりは、今や地上と重なって混合した状況になっている、ということです。そのため自分の感情に無自覚でいると、それが磁石のように働いて、アストラル界の共鳴する層とつながってしまうのです。その接触具合は人それぞれですが、今や誰でもそちらに引っ張られる可能性があります。
そして、場合によってはそれが自分(の第2~3層)にとっても都合がよいために、ついつい引かれてしまうところがあるようです。それは良くも悪くも、それによって個人的能力以上のパワーを得るために、そのパワーへの執着や依存心がわいてくるからです。
それによって本来の劣等感が払拭されて万能感を得たり、不安感なども緩和されて、多幸感や高揚感で満たされたりもします。そのように生きることは、人生の困難に向き合うよりもはるかに楽であるため、アストラル界と相互依存的になり、なかなかそこから抜け出すことは難しくなります。しかも、挙句の果てには思考停止状態にまでなった時には、やめたくてもやめられないという、中毒性をも秘めています。
そのような状態は、ごく限られた人にしか起こらないと思われがちですが、現代は思いのほか多くなっているのではないでしょうか。社会的に活躍している人の中には、第2層とアストラル界がつながっていて、無自覚のままコントロールされている、ということもあり得るからです。
今や霊能を持っている人は特に強力に、そうでなくてもほとんどの人が、何らかの影響を受けていると思った方がよいほどです』
3.アストラル界についてのQ&A
1)アストラル界の影響
Q :アストラル界が虚相の世界、精神界~天界が実相の世界と言われ、アストラル界に関わる現象は、本当の霊(スピリット)というより想念の残像、あぶくのようなものが多いと、本にはよく書かれていますが、アストラル界は単なる過渡的なプロセスであって、本来の霊界ではないということなのでしょうか?
A :『アストラル界とは、3次元の物質的肉体を持つがゆえに生じている層です。そこでは、肉体に近い霊的な体であったアストラル体を身に付けていて、そのアストラル体には地上時代の想念や感情が蓄積されているので、その蓄積物を昇華させていくことがアストラル界の主な機能です。
そのアストラル界でも、霊的な階段を上っていると言えなくもないのですが、そこでの霊体は小さな核としてしか認識されず、アストラル体の影響の方が格段に強いのです。ですから、厳密にいえば、アストラル界は霊的な成長に関しては、少し芽が出た程度の意識しかなく、むしろ地上の残像物の処理をする、物的なものに対する欲求とどう付き合うかの学びの延長線上にある、ということです。
それゆえに、精神界からが本来の霊的な実相の世界とされ、それより下のアストラル界は霊にとっては地上の延長である海にもぐっていくようなものなので、上から第1局面、第2局面と降りていくに従い、数字が上がっているということです。
つまり地上から数えて1、2、3とはならず、地上から数えると6、5、4、3、2、1とカウントダウンするように上っていき、第2の死でアストラル体を脱いで、本来の霊としての第1ステージがはじまるということです。
つまり、肉体を持ったことがない霊の一番低い階層は、精神界の第1局面であり、そこが地球圏の霊のスタート地点です。もしその霊が地上に肉体を持って再生すれば、死後はまずはアストラル界のいずれかの同調する局面に行くことになります。
霊的な位置が下がったように見えますが、地上的な海に飛び込むというのは、そのようなハンデ(重り)をつけて、なおかつそこから上昇してこなければならないわけで、その海を通り抜けてくることで、内在する霊は以前よりもたくましく育っている、ということになるのです。
その海を一過性のプロセスにしていける進歩の早い霊もいれば、その地上的な執着にはまりこんで、そこからなかなか抜け出られない霊もいます。ですが、アストラル界での学びは、この物的地球に所属しているがゆえの醍醐味として、重要なものとなっています。
「アストラル界に関わる現象は、本当の霊というより想念の残像、あぶくのようなものが多いと書かれています」というご質問に対しては、アストラル界は霊が主導権を握っているというより、低層になればなるほど生前の感情や欲望が動力となっており、なおかつそれは地上時代にため込んだものなので、あぶくのようなものだと表現される、ということです』
Q :アストラル界の存在はあぶくのような存在という言い方もありますが、実際には<肉体>を脱いだ<幽体>として、つまり<個>としても存在しているのでしょうか?
A :『アストラル界の存在は、地上での肉体を脱いで、幽体をまとった個として生きています。ただし、地上のように第1~3層をもち、その上での選択の自由があるということではなく、地上時代はまったく無意識だった、第2層(=無意識的自我)のみがむきだしになっている状況です。かつてのアストラル界は、感情や欲求の浄化層としての過渡的な通り道でしたが、今ではそこの勢力が拡大し、暴走するほどになっています』
Q :以前はアストラル界の霊が、地上の人間に憑依するというのは特殊なケースでしたが、今はそれがかなり当たり前になってきたように感じます。アストラル界と地上界がお互いに混ざり合っているような印象さえありますが、その辺をご説明いただけますか?
A1:『現代は唯物主義・科学主義が浸透した結果、死後の世界を否定しているために、死んでもその自覚が薄い方がほとんどです。そのため、死後もなお<この世>に執着し続けていて、アストラル界自体がどんどん地上に近づいて来ている面があります。
また一方で、地上側でも自我が未成熟な人が増えて、第1~3層の間で葛藤できずに人格が分離したままの人が多くなっていること、<引き寄せの術>によって物的欲望をかなえようとすることなど、現代におけるもろもろの問題が、アストラル界を地上に呼び込んでいる、という状況になっています。
そのようなわけで、かつての成熟した自我を持ちえた時代には、アストラル界からの憑依現象はかなり稀なことでしたが、現代では地上とアストラル界は互いに引き寄せ合って、ほとんど重なり合った状態になっています。そして今や、アストラル界の霊が、地上の人々を影で動かしている、といってもよいほどになっているのです』
A2:『今やアストラル界と地上は混合しているといっても過言ではありません。昔は憑依といった形で地上に影響を及ぼすアストラル界の霊は限られていましたが、現在は以前よりもっと簡単に、アストラル界の霊が地上の人間に憑依しています。
それはこれまでのメッセージにあったように、地上側の人間の脳の発達の未熟さ、自我の弱体化などから憑依しやすくなったためですが、霊としても人間に憑依し、その肉体を操ることは、生きていた時よりも行動範囲が広がり、万能感・充実感を強くもてるからです。
そのため、本来ならばアストラル界の上層が下層の霊に対して必要に応じて関わり、お互いに学び合っていたことが、地上の人間に憑依し、歪んだ万能感をもつことによって、本来見るべき自らの問題を見ないまま、地上界に影響力を及ぼす方に執着していく、といった事象まで起きています。またさらに精神界など上層階からの指導があっても、人間に憑依している霊には、もはやそれは届きません。
つまり従来のように、アストラル界での学びを終えたら精神界に行くのではなく、霊が自らアストラル界に停滞し、地上とのつながりを保ち続けようとしているために、アストラル界のモヤの深さと厚みは増すばかりなのです。
このように、地上の人間はアストラル界の霊の力を借りて第2~3層の欲求が満たされ、アストラル界の霊は地上の人間の肉体を借りて自らの欲求を満たしていくという、お互いになくてはならない相互依存関係となり、アストラル界と地上が混合しているといえるのです』
Q :無気力になることも、アストラル界と関係しているでしょうか?
A :『アストラル界は感情のデパートと言ってよいほど、その部屋は細かく分けるとたくさんあります。
低層の殺意や怒り、性欲、あるいは上層の「人のために」などの欲求は分かりやすいところですが、それほど知られていないのが、この<無気力の部屋>です。あの世の霊に限らず、この世の燃え尽き症候群となった人々が一時的に休息をとっていたり、あるいは何もかも面倒になって避難していたり、今一つ意欲がわかずに引きこもり状態の時に、だれにも侵害されずに一人でいられる部屋です。
そこにつながると、何となく気分は落ち着き、やる気を出さなくてもよいので、まったりと時間を過ごせます。人や自分にも無関心になれるので、何も考えたくない時にはちょうどよい慰安の部屋になるようです。
その部屋の明るさ加減にもバリエーションがあり、月夜あたりの暗さから、寝る前の寝室の間接照明のような明るさ、昼間に薄いカーテンをしてある部屋のような明るさなど、その時の好み(無気力度合い)によって、いろいろな段階を選べるようになっています。
この無気力の部屋とつながっている場合、地上の本人はまったく無自覚です。誰にも迷惑をかけず、一人の時間にふっと心の中にある状態とアストラル界(のその部屋)が共鳴してつながるだけですので、見た目には何の害もないからです。
しかし自分の魂とつながって生きるためには、この部屋から出ないことには、はじまりません。そこはあくまでも第2層(=アストラル界)であり、その中にいる限り、第1~3層の統合的な自我によって生きることはできないからです。
このように、アストラル界とつながるというのは、個体の霊とつながることだけでなく、その階層の雰囲気とつながる、ということもあります。例えば地上でも、お化け屋敷に行けば、実際にお化けと遭遇しなくても、その場の雰囲気から肌寒い怖さを感じるのと同じように、アストラル界のある階層の雰囲気に馴染んで、そこにいつもアクセスするということはあり得るということです』
Q :現代のお金・権力・性などへの執着は、もはやそれを超えて中毒なのではないか、と思われるほどですが、それもアストラル界の影響によるものでしょうか?
A1 :『中毒というのは、自分の中に見たくないものがある時、それと向き合わないための逃避手段として始まりますが、徐々にそれが常態化していき、自らコントロールができなくなる状態を言います。
お金にしろ、権力(社会的有能感)にしろ、性にしろ、それによって快感を得て、相手をコントロールもできるというパワーゲームの側面もあり、常に中毒の要素がからんできます。
はじめのうちは自らコントロールしているつもりでも、いつの間にか自分がその衝動にコントロールされているのが、現代のパワーゲームの真相であり、そこにはアストラル界の勢力も巧みに便乗してきますので、ますます増大しているのです』
A2 :『性というのは、(忘我によって)宇宙と一体化するための手段にもなりますが、その一方では肉体的快楽の最たるものとして、中毒的欲求にもなります。つまり、神に向かうものに昇華できるのか、俗に向かうものとして消費するのかが試されていて、人類がどのようにこの性と向き合っていくかも、地球実験の成否を左右する指標の一つでもあったのです。
現在、性ビジネスはお金への執着とも相まって蔓延し、一般の人々の性モラルの低下は、児童の性的虐待や、性的ハラスメントの増加も含めて、非常に深刻です。
性について明るくオープンに話せた、江戸時代のような時代であれば、それは一つの大らかさと楽しみにもなりえたのですが、現在では社会的仮面の下に隠れた闇と化し、そこにアストラル界のエネルギーも流れ込んで、その勢力は年々増大しています。
では、かつての<大らかな性>と現代の<闇の性>は、どのように違うのでしょうか?
一つは、その行為に魂が宿っているかどうかがあげられます。魂は基本的に合体したい、一体化したいという願いを持っていて、それは大いなるものから分離したがゆえの根源的欲求なのです。その欲求を伴った男女の交わりは、神秘体験として魂の潤いとなり、お互いの覚醒を促進するものにもなるのです。
もう一つの違いは、そのような神秘体験にまでは至らなくとも、超自我(道徳観・良心など)が機能していて、必要最低限のモラルが守られているかどうか、があげられます。性は一つの娯楽としても広がりますが、そこに多少の罪悪感や葛藤があるうちは、欲求の暴走に歯止めがかかります。
しかし、成熟した大人がどんどん減り、善悪の間で葛藤できなくなった現代では、その暴走する欲望にブレーキをかけられる術は、もはやありません。特にSNSの普及がそれに拍車をかけて、大きな山火事に追い風が吹いている状況ですから、今はもう燃え広がるのをただ見ていることしかできない状態です。
環境、経済(お金)、戦争、虐待などの問題と同じく、性の問題というのも現代を映し出す鏡です。これらの問題はすべて、超自我が機能しなくなり、欲求が野放しになったことによって生じています。これまでは、節度や良心としての超自我が働くことが、社会的なバランスを取るカギになっていたのです。
その超自我とは、神の目を想定した中で一つの規範になっていました。神の目を意識するがゆえに、社会でも家庭でも守るべきルールが設定されていたのです。しかし、人類は死を否定し、神を否定し、その結果として超自我をも捨ててしまった、ということなのです』
2)人のため:ゴールデンルールとアストラル界上層の違い
Q :3次元のゴールデンルールの「人のため」と、アストラル界上層の「人のため」との違いを、説明してください。
A :『アストラル界の最上階である<人のために>何かをしたいというのも、煩悩の一つです。欲求の中では最上級のものですが、それはあくまでも自分の欲求であり、自己満足のためだからです。
そこでの自己満足は、人に貢献し、役立っているという快感や承認欲求を得ることです。その場合、より深い無意識層には自信のなさや劣等感があることが多く、それを打ち消してくれることにもつながるので、一石二鳥です。実際、その動機は後者にあることも多いのですが、当の本人は<人のため=善人>としての自分に満足を覚え、それが続けばその快感に酔いしれていくことにもなるでしょう。
というのも、そことつながり続ければ、自信のない自分に価値を与えられたように感じ、エネルギーもみなぎり、無敵の自分になってパワーも得るため、その背後からの後押しはたいそう心地よく、やみつきになっていくからです。
いろいろなことがうまくいき、人生をコントロールして疾走できるというのは、人間としての快感の最たるもので、アストラル界の低層や中層よりもそのような上層との結託から抜ける方が、実は困難だといえるほどに中毒性を秘めています。
現実的にも、金銭、肩書き、チームや社会を動かす権力を得ていく場合も多いので、ますますその憑依霊を頼って歩むようになり、はじめは気持ちを後押しされる程度だったものが、徐々に第2層がまるまる浸食されていくようになります。
そうすると自我を手放して、無自覚に身を任せるようになり、主導権がアストラル界の勢力の方に変わっていくのです。昨今、お手軽なスピリチュアル本が流行っているのは、そのようにアストラル界とつながっている方が多くなっているという証です。
では、もう一方の3次元のゴールデンルールとは、どのようなものでしょうか。それは、第1層とつながった時にわいてくる、相手のことを思う<愛>のことです。それは無私の施しであり、奉仕であり、同胞へのいたわり、慈悲、思いやり、良心という、心の中の最も深いところにある善なる気持ちから行うことが、ゴールデンルールによる<人のため>だといえます。
結局、アストラル界上層の<人のため>と、ゴールデンルールによる<人のため>は、行動は同じであることも多く、その<動機>がどのようなものだったのかは、本人にしか分からないものです。その動機が第2~3層の「自己満足のため」か、第1層からの「相手のため」であったか、ということでご判断いただければと思います』
Q :ゴールデンルールからの<人のため>は、相手の<魂の向上進化>を願うために、時として厳しいものになることもある。逆にアストラル界の<人のため>は、結果としてそれを妨げてしまうこともあると思いますが、その辺をより具体的に説明して下さい。
A :『<人のため>というのは、一律にどのようなものがよいかという答えはありません。当人の魂の成熟度や、その時の課題によっても違ってくるからです。しかし究極的な分け方でいえば、確かにゴールデンルールによる<人のため>は、相手の魂の向上進化を願っての援助、アストラル界の<人のため>は、結果としてそれを妨げてしまうような援助になるとも言えるでしょう。
というのは、この世に生まれた究極的な目的は、<魂の向上進化>のためにあるのですが、第1層の魂にとって学びになることと、第2~3層にとって心地よいことは、真逆になることが多いからです。
例えば第2~3層で依存的な気持ちがある人にやさしく接することは、相手にも喜ばれ、自分も満足感を得ますが、それがその人の魂にとって本当によいとは限らない場合もあります。自立する方向での援助がその魂の成長となる場合は、手を出さずに見守る方が、相手のためになるという具合にです。
一般的に第2~3層でのアプローチの方が相手に喜ばれ、精神的にも感情的にも受け入れられやすいために、それが<人のため>であると思われがちです。もちろんそのような援助が、魂に向き合う基盤として必要なこともあるのですが、最終的には<魂の向上進化>を願う行為の方が、より本質的であるといえます。
それは、本人にとっては真剣に向き合わざるを得ないことですので、たいがいは嫌な顔をされますし、それを提示する側にも魂からの真剣さが求められることになるでしょう。しかしそのような厳しさにこそ、深い愛が込められています。それは本人の魂の覚醒と進化のために、あえてなされていることだからです』
3)アストラル界と自我
Q :自我とアストラル界の関係性について教えてください。
A :『第3層の意識的自我で考え選択し行動したことは、一つずつ脳に蓄積されていきますが、第2層の無意識的自我でアストラル界と繋がって選択し行動したことは、脳には確かな記憶として残りません。その結果、自分にとって都合のいいことだけをまだらに記憶することとなります(例えば、小さい頃は自我が未発達で、快・不快による場当たり的な選択をしているために記憶が残りにくい、ということと同じです)。
そもそもアストラル界の霊による憑依は、怒り・悲しみ・不安・恐れといったマイナス感情が第2層に抑圧されている時に、それに呼応して起こるのです。そして第2層を乗っ取りコントロールすることによって、下層の霊による場合は感情がより激しく揺さぶられるのに対して、上層の霊の場合は逆に感情の波立ちが収まるので、その抑圧されていた感情が、昇華されたように錯覚したりもします。
第2層にある感情は、結局はそれまで形成された観念によって生み出されることが多いのですが、霊によってコントロールされる場合は、その観念がさらに強化されて怒りや恐れなどの感情を正当化したり、逆に感情が波立たなくなることで、観念がなくなったかのような解放感を得たりすることもあります。
その結果、次第に迷いや葛藤が生じなくなります。それがなくなれば、恐いものなど何もなくなります。正しい自分、強い自分、無敵の自分という誤った自信が生まれてくることで、ますますその感覚を手放しがたくなり、憑依状態から抜け出せなくなってくるのです。
それによって、自我による自律的な選択ができなくなり、第2層がますます憑依霊と強く結び付いて、自分の意志を持って生きるのではなく、霊の意向とリンクしながら生きることになるのです。
アストラル界の下層とつながる場合は、周りへの攻撃性や破壊性などによって周囲も異変に気付きやすいのですが、上層部とつながる場合は<人のため>と思って行動し、社会的にも経済的にも一時的には成功することが多いために、ますます深みにはまっていくことになります。
そのように人間が表層的・一時的にでも満たされた様子を見ることによって、上層部の憑依霊も<人のために>になったと満足し、さらにその影響力を広げるようになっているのです』
Q :第1層の直観と、第2層の駆り立てられるような衝動というのは、どう違うのでしょうか?
A :『第1層の直観というのは、静かに心の深くに耳を澄ますことで、ふと浮かんでくるものです。ひらめくような感覚や、目が覚めるような爽快さを伴い、深いところで腹が座る感覚さえも伴う、<あの世の私>からのインスピレーションです。
一方、第2層の衝動の場合は、突き動かされるような感じや、駆り立てられるような感じ、それをせずには落ち着かないという感覚を伴います。それは、魂からの願いとして勘違いされがちですが、そのような駆り立てられる感覚を伴うものは、第2層がアストラル界とつながって、衝動的に行動させられている場合も多いといえます』
Q :人格の分離について詳しく教えてください。
A :『人格の分離は、第3層の社会的な自我と、第2層の欲望、第1層の良心(魂)とが矛盾なく同居するために、各層の間での<葛藤>を完全に手放しているために起こっている状態です。
例えば、心の深いところにある良心を無視して、その場を取り繕う行動を取ったり、自分の欲望に従ったりする時は、普通は何となくモヤモヤする気持ちが残るものですが、それを徹底して見ないようにすることで、次第に葛藤がなされなくなります。
さらに、それが習慣化されることで、「社会的な顔」と「裏の顔」の二つを使い分けている人は、現代では非常に多くなっているのではないでしょうか。たとえ本来は第1層まで視野に入っていた人でも、このように葛藤を避けていれば、第1層と第2~3層が次第に分離していく、ということも起こります。
葛藤を避けるために思考を停止し、その時々の都合のいい理屈や言い訳を重ねているうちに、その分離の溝はますます深くなっていきます。現代のように、ゆっくり立ち止まって考えられないスピード社会や表層的な関わりのネット社会になっていることも、それをさらに助長する要因となりました。
そのような状況の中で、分離した自己をつなぎ直すためには、手放した葛藤を取り戻すことです。そのためには内省する時間を持ち、「第3層では何を考え、第2層では何を欲し、第1層の魂は何を願っているのか」と、静かに心に問うてみることです。
そのように自分の第1~3層をありのままに見て、その間で葛藤した上で、その時・その場に応じた選択を積み重ねていくことによって、バラバラだった内面が一つに統合されていくことでしょう。そのように自律的な道を歩むことによって、次第にアストラル界とのつながりを絶つことができるようになるのです』
4)他力本願による依存から自力本願へ
Q :アストラル界への依存から抜け出るにはどうしたらよいのでしょうか?
A :『アストラル界の上層の霊は、人の心の機微をよくとらえていますので、はじめは心地よい接触をしてくる場合が多いです。落ち込んでいる時にやさしく語りかけたり、望みの物が手に入れるのを助けたり、思わず頼ってしまうような状況を作るのがうまいということです。
そのように差し伸べられた手をつかむ側の根本にある気持ちは、<誰かを頼りたい>という依存欲求です。自分の限界を認めて助けを求めるのは、場合によっては大事なことですが、とにかく誰かを頼りたいという<他力本願>が強い場合、その<依存>を強めていくことになります。アストラル界というのは、その他力本願に付け込んでくるというのが、王道パターンなのです。
そこから抜け出るには、「自分の行いの結果が、必ず自分に返ってくる」という自力本願を基盤とした<因果応報の法則>を、心から分かり実践していくことです。そうすれば、結果に対する責任を取ることが前提になるので、一つひとつの行為を自分の第1層(魂)と照らし合わせて、慎重に選択するようになるでしょう。
そのように意識が第1層にも向くようになり、それに従って責任を持って選択し、アストラル界とのつながりのループから抜け出ると、それまでとはガラッと違う<今>が展開していきます。
アストラル界の霊は、第2~3層の自我にしか影響を及ぼすことができず、第1層の魂は何者によっても不可侵なので、そこに意識をあてている限りは、アストラル界からの影響を断ち切ることができるのです。
そして、一時的ではなく長期的な観点では、自分の第2~3層をありのままに見て、アストラル界に共鳴する自分自身の動機をしっかり意識化するならば、無意識的に同調するループから抜け出すことができるでしょう。
結局、アストラル界とのつながりは、第2層の抑圧した感情や欲望が無自覚に共鳴してしまうことによるので、それらを意識化してしまえば、自我の守備範囲に入ってくるようになります。すでに中毒状態になっている場合は、何度もゆり戻されますが、徐々につながる時間を短くしていく努力が必要です。
いずれにしろ、しっかりとした<自力本願>の意志を持てば、そこから抜け出ることは可能です』
5)死後の<人生回顧>
Q :死後は<人生回顧>で真実に向き合わなければならないのに、地上界にしがみついてそれを見ようとしない霊もいるとのことですが、その辺の説明をお願いします。
A :『現代人が死後の世界を否定しているのは、唯物主義者だからという理由だけではないようです。何となく死後の世界はあるように思っていても、“この世限り”と思っておきたい理由が、他にもあるからです。それは、自分がしたことの責任から逃れ、本当の自分は見たくないために、頑なに生きること(物質世界)に執着し、死後のことは「あいまいにしておきたい」という理由からです。
死後は自分が抑圧して見ないようにしていたものが、すべて顕わになります。特に<人生回顧>は、都合よく記憶していたことではなく、ありのままの真実が目の前に提示されます。それによって、自分の至らなかった点に焦点をあてて振り返っていくのが、浄化が順当に進んでいる時のアストラル界の機能でした。
しかし、今はそのような人生回顧から逃れようと地上界にしがみつき、人に憑依しながら、魂の向上進化の軌道に乗ろうとしない霊が増えてしまいました。
人生回顧では、自分が生きた人生の記録がありのままに映し出され、見過ごしていた小さなウソから悪事まで、すべてを見ることになります。その時に後悔しないように、地上で精一杯生きるというのが、魂の向上においては目標でもあったはずですが、今やそれが目先の現世利益を求めるようになっているのです』
Q :死後に<人生回顧>がなされない場合もあるのでしょうか?
A :『死後の<人生回顧>というのは、本来2回あります。1回目は死後すぐに、それまでの人生が走馬灯のようにありありと、しかも一瞬のうちに思い出されるというものです。この1回目で未消化な感情のあたりがつけられ、それを昇華するのに適当なアストラル界の階層に進む、という手順です。
2回目は、アストラル界から精神界の最上階に至った時に、また地上界へ再生するか、解脱して天界に進むかの最終判断のために行われます。その時は、因果応報の法則に照合しながら、自分のすべての前世を総合的に振り返ることになります。
このような<人生回顧>は、自分の魂に記憶されている情報にアクセスすることによって、その情景がありのままに浮かぶというシステムになっています。
このシステムが、死後にうまく作動するためには、魂や神の存在を認めていることが必要ですが、現代は神や魂はおろか、死後の世界すら認めないという強固な唯物的観念を持つ人が多くなっているため、第1層にアクセスできないまま死の関門を通過することとなります。
そのような場合は、死んでも「私はまだ生きている」と思い込んでいるために、本来ならば死後すぐに体験するはずの<人生回顧>に至らず、地上界に留まっている霊が非常に多くなっているのです』
4.アストラル界からの影響を免れるためには
『アストラル界と結託して生きることは、一時的には利益があるように感じますが、長い目で見ればそれは決してそうはならないことをお伝えするためでした。なぜなら、その結果は必ず自分自身に返ってくるからです。
この世界は<因果応報の法則>が厳密に働いているために、それがすぐにそうなるか、数年後になるか、あるいは死後、次の転生で返ってくるかは分かりませんが、アストラル界とつながって得た利益は、必ず悪因悪果として返ってくることになります。それは、この世の最終目的は、魂の向上進化のために創られたからです。
ですから、もしあなたが魂の成長を願うのであれば、自分自身の魂の声によくよく耳を澄まし、日々の選択を自覚的に行うことをお勧めします。そうすることで、これまでと結果がどう違うのか、ご自分で実感されてみてください。そのように<因果応報の法則>に基づいて考え、第1層(魂)にかなった行動を心がけることによって、アストラル界からの影響(コントロール)から離れることができるのです』
参考書籍: 「天地の対話」シリーズ4 『現代における憑依の仕組み オウム事件はなぜ起きたのか』