好奇心

これまでサラチームに届けられてきたメッセージ(神話)は、<全知全能の神>というよりも、宇宙にポッカリと1人で浮かんでいるだけでは「自分とは何か」が分からない、ということを悟った<無知の知の神>からのものでした。

自分とは何かを知るために、究極的には私たちホモサピエンス80億人の分身を創ったということで、その神の<愛>はどの分身をも「ありのままに見て、受け入れること」、そしてその<叡智>は「すべての在り方から学ぶこと」ということでした。

特にその学びの源泉は、<好奇心>ということですので、好奇心についてのメッセージを以下に抜粋してみましょう。

 


2019年55

『どの段階から見るかによって、宇宙や神の捉え方というのは変わるものですが、(9次元の)俯瞰した目で捉えるならば、この宇宙は<神の遊び>であるといえます。

 

神とは根源の<意識>であり、それが分霊としてさまざまな個に分かれました。そのように分かれた意識(分霊)が多様な体験をするために、次元やもろもろの設定が違うこの宇宙(体験の場)は作られたのです。

 

なぜそのような体験をしたいのかといえば、神自身が「自分を知りたかったから」です。つまり「純粋な好奇心と無邪気な遊び心で、さまざまな体験を通して、そこで生きる分霊としての自分をありのままに知り、そこから学ぶこと」、それがこの宇宙を創った神の動機でした。その背景には<無知の知>(注:ソクラテスの言葉でもあるが、何でも観念的に分かったつもりにならずに、自分はまだ知らないことを知っているということ)があったからです。

 

地球は、そのような意味においては、最も難易度の高い<体験の場>です。通常、星一つにつき直日が一つ与えられ、その直日を共有することでワンネスとしての意識でいられるところを、地球では個々人に直日や自我を与えたため、どのような選択でもできる<選択の自由>を、それぞれが持てるようになりました。個人には第2層の無意識領域を、地球全体としてはアストラル界や幽界を作り、自我が神へ向かおうとするのに対してそれらが障壁となるようにも設定されています。

 

そうすると、やはり今回も自滅の道を歩むことになったわけですが、しかしこれ自体も一つの学びであり、何ゆえそうなったのかを振り返るならば、次に生かせる教訓は山ほどあるわけです。<神の遊び>とは、苦しむ人類を見て神が笑っているということでは、もちろんありません。「共にその体験をし、そこからありのままの自分を知ろうとして、すべてを学びにしている」ということです。

 

宇宙には美しい星が数多くあり、そこでの様子はまさに神の楽園ともいえる、愛に満ちたところです。それに対して、地球は憎しみや怒りをはじめとするドロドロとした感情も多いところですが、神はそのような感情をも体験してみたかった、ということです。そこから各人がどう光に目を向けられるかも一つの醍醐味ですし、たとえそれが無理であっても、それ自体を学びとして昇華していけるということです。

 

とはいえ、地上にいる皆さんが、その中でもお互いに助け合おうとする気持ちを持つことは大切です。「遊びなのだからどうでもいいのだ」ということではなく、「この状況の中であなたはどうするのか?」が、常に問われているからです。

しかし、それら11人の動向を俯瞰している神からの視点では、何の善悪の判断もせずに、ありのままを見て、どの分身からも学んでいる、ということでしょう。そして、その神を内在化しているみなさんも、もし俯瞰できる位置にまで意識を拡大することができるならば、それぞれ等しく一つの体験として(批判したり、評価したりすることなく)ありのままに見られるようにもなるでしょう』

 

 

2020年62

※ヘレン・ケラーさん

「目が見えず、耳が聞こえない人生を選択した中で、一番学ばれたことは何だったでしょうか? 私たちに伝えたいという一番の学びは、どのようなことだったでしょうか? できれば、今は脳の話をしているところなので、脳との関連でお話しいただければ幸いです」

 

『言葉によって脳の可能性を開き、自我を持てたことの喜びが私にはありました。私の場合、その自我を動かしていた根源的な力は、好奇心でした。その好奇心で、ただ漫然と知るだけでなく、自分で感じ、考え、学ぶこと。そしてさらに自分の世界を内的にも外的にも広げていくことは、単純に面白かったです。

 

特に、いろいろなことがつながって分かる時には、何とも言えない歓喜がありました。その歓喜というのは、地上でしか味わえないものでした。直観(第1層)、リアルな感情(第2層)、冷静な思考(第3層)というまったくバラバラなものが、脳の中で美しく整理・統合できるのは、言葉があるおかげです。

 

そのように言葉を使えるようになった<私>を体験するのは、とても楽しかったですし、何より私はそれができなくてイライラしていた幼少期があったからこそ、それが急速にできるようになったありがたみと素晴らしさを堪能していたように思います。

 

結局は、みなさんと同じことを体験しているのですが、一般的には言葉を学んでいくのは小さい頃からゆっくりとしたプロセスで進むため、その画期的な素晴らしさは当たり前になっているのかもしれません。

 

でも私の場合は、そのような言葉の獲得が7歳になってから爆発的に進んだため、<知りたい>という好奇心は常に私の心を躍動させ、人生を楽しむことにつながっていったように思います。面倒なことも、苦しいことも、その人生の中には多くありましたが、それを上回るモチベーションが好奇心だったと思うのです。そして神も「知りたい」と思ってこの世を創られたたということは、私は「目が見えず、耳が聞こえない神」として生きていたともいえますね。

 

「あぁ、楽しかったな」と、ただただ素直に思います。どんな境遇でも、好奇心があれば楽しく生きられる。それが私の学びです』

 

 

2021年1018

※田中角栄さん

『私も最初に関わってから、みなさんの対話をずっと聞いてきたのですが、それはやはり一つひとつの話がとても面白く、私の好奇心を刺激していたということなのでしょう。

 

そして思い返せば、生前に政治家だった時も「あれはどうだ?これはどうだ?」といろいろなことに意識を向けていましたが、あれも好奇心からだったのかもしれないな、と先日よぎっていました。

 

しかし、そう思った途端、直子さんはメールでこのように書かれていましたよね。

「この情報社会の中で、現代人のもっとも大きな問題は、忙しく駆け回る中で、大量の情報を表層的に読み流しながら、自らの観念で取捨選択して分かったつもりになっている、その<傲慢さ>なのではないか、と思っています」

 

これはまさに私のことであったと、改めて思いました。「好奇心があるから、多くのことにチャレンジしていたんだ」と巧みに論理をすり替えていましたが、結局は自己満足のために駆け回っていただけでした。いろいろなことを「知りたい」と思うのは、自分の観念をただ補強して、「やっぱりね」と思って自分を正当化するためであった、とも言えます。

 

日本人が忙しく駆け回るようになったのは、まずは開国して諸外国と競争をはじめた時、次は敗戦後に負けた悔しさを物的繁栄で補おうとして、躍起になった時からでしょう。その後、経済優先のスピード社会になると、走りたくなくても走らざるを得ない、という状況にかられていきました。

 

それは、実は「自分に向き合う時間を作りたくないために、走っている」とは言えないでしょうか。どこか魂にやましさを感じながらも、それから逃げるために仕事に熱中する、ということは、私にもあったように思います。

 

ここまで振り返ると、5次元に行けそうでしょうか。いや、まだまだかな?()。次に3次元に生まれる時は、忙しく走り回らず、内省する時間をしっかりと取りたいと思います』

 

 

2021年128

※キューブラー・ロスさん

『<死の受容>というのは、この世での人生を終えることへの否認や感情的抵抗を、受け入れていくプロセスのことでした。しかし<あの世>について正しく学べば、<死の受容>ではなく、<死への好奇心>となるのではないでしょうか。

 

死とは肉体から霊体への移行であり、3次元の夢から覚めることであり、これまでも輪廻を繰り返してきたように一つの通過点に過ぎません。「死んだら終わり」ではなく、「死んでも続く!」なのです。

 

しかしそう思っている人でも、生への執着は持っていますから、やはりこの<死>への抵抗感がさまざまな問題の根幹にあるのでしょうね』

 

 

2022年215

※マグリットさん

『保守的な枠組みの中にいるのが安心という人もいるけど、その枠組みから出てみる時の新鮮さってあるんだよね。好奇心を持つといつも新鮮さが味わえる。<新鮮>というのは、常に<今>にいる感覚なんだ。

 

脳はすでに知っていることにはあまり興味をもたず、対象そのものを新たな目で見るよりも、脳内記憶で代用して、エネルギーの浪費を抑えるところがある。それが観念の中で生きていくパターンにもなるんだけど、そうなると同じことの繰り返しばかりで面白くないじゃないですか? マンネリ化せずに心が動いて、いつも新しい気持ちでモノゴトに向かえるというのは、サイコーだと思うよ。

 

<新しい地球>でもみんな好奇心があるからどんどん進化させていて、よりよくなっていっているよ。同じことをしているようでも毎日違うし、それぞれにいろいろなことを思い付いてチャレンジしている。それは誰かに認められるためではなく、純粋に面白いからなんだ。それぞれの特性を発揮しながら、より深く神につながる喜びが、自分の深い所からビンビン出てくる()

 

「よく言われている、“ワクワクすることをしよう”ということとの違いを教えてください」

 

『それは、どの層でワクワクしているかということで、第2層のエゴが満たされる快感もやっぱりあるから、自分に都合のいいことをしていると、確かにワクワクはするよね。葛藤しなくて良かったら楽だし。だから<楽さ>を求めてのワクワクや、心の表層部分で軽くそう思っている場合はよくある。それを見ると、「おいおい、自己責任果たしてから言えよ」と思うことは多いよ()

 

ワクワクで生きられるのは、3次元の因果応報の<人のため>の段階をクリアして、ちゃんと責任のある行動をとれるような自分への厳しさを持った上での話だから。その上で、5次元の<自分のため=自分の魂の喜びのため>の段階に進めるということなので、そのステップはちゃんと分かってほしいね。

 

あと、基本技術の鍛錬がなされた上で、はじめて枠組みの突破も斬新な美しさになるので、そういう土台もないのにデタラメにされても困るなと思うことはあるね。絵なんかだと、基礎がないのに奇をてらって描いている場合などは、ただの素人の自己満足にしかならないから。5次元の<自分のため>というのは、それだけ高度な遊びなんだ。基礎がしっかりしているからこそ、次の段階に行けるんだ』

 

 

2022年319

※シルバー・バーチさん

『魂が目覚めるためのキッカケとして、苦難が与えられると私は説きました。それは、意識とは常に外に向くものですので、八方ふさがりの中で、内なる光に向かうことが、魂を揺り起こすことになるためでした。

 

そうやって立ち上げた魂は、暗闇の中の灯台として、自らを照らし続けてくれることでしょう。苦しい時期が長かった人ほど、そこで磨き上げられた魂は、ゆるぎなく自分を支えてくれるものになっているはずです。

 

そしてここからが今お伝えしたい本題なのですが、自分の魂を見出し、因果応報の法則も身についているならば、もはや3次元の段階はクリアしているので、5次元の法則である<自分のため>も意識して過ごされることをお勧めします。

 

<自分のため>というのは、自分の魂が喜ぶよう、好奇心をもって楽しむことです。それはこれまでの3次元での「苦難や試練で魂は磨かれる」という観念を、手放すことでもあります。

 

みなさん、もはや残り少ない人生でしょうから、「人間というのは、試練続きで大変だったなあ」だけではなく、「大変なこともあったけれど、結局は楽しかったな」と最後に思えるようにお過ごし下さい。

 

「ワクワクと楽しむことばかり考えていないで、自分の課題に向き合ってください」と厳しいメッセージを言わなければならない人もいますが、『シルバー・バーチの霊訓』に共鳴するような、いわゆる真面目で誠実な方々には()、今は「苦しむな、楽しめ!」をむしろ合言葉としてお届けしたいと思います』

 

 

2022年320

※バッハさん

『<新しい地球>の5次元、アートビレッジは3回目の改装がなされました。今度は巻貝のような形の建物で、そのらせん形の骨格にそって中の部屋も一緒に動いています。このような改装は飽きないようにするためで、創作の原点である好奇心を持続するためには、定期的なリフレッシュが必要なのです。

 

そういえば、こちらのアーティストは、少しでも飽きてきたら違うことを始めますね。もうこの段階は十分だとなれば、手法を変えたり、テーマをガラッと変えたり、人とコラボレーションしてみたり。とにかく変化し続けることで新鮮さを維持できるよう、工夫しています。

 

神の分身として「体験から学ぶ」という時も、その枠組みや進化度が常に変化していくからこそ、飽きずに楽しめるのでしょう。<生成と消滅>というのは、新鮮さを保つための秘策でもあるように感じます。

 

ちなみに私は音楽を十分に堪能したので、次はその先の数学に興味をもって研究しています。どちらも法則ですからね』

 

 

2022年327

※ソクラテスさん

『スピード社会、孤立化、ネットでの表層化、虚飾性、霊能者タイプの増加、脳の劣化による思考力低下、さらには発達遅滞による現実認識の低下。これらすべてを合わせて<統合力の低下>と言ってもいいくらいですが、そうなると「分からない」ということ自体が自覚できず、「分かる」という傲慢さばかりが増長していきます。

 

しかも頭のいい人や勝ち組は「成せばなる」「努力すれば分かる」という観念を積み重ねていますから、有能な人ほど<無知の知>から遠ざかる、ということもあり得るのです。

 

あなたがたの解明が9次元レベルになってから、科学者との対話が多くなりましたが、彼らは事実に基づいて判断し、分かることと分からないことの区分けがはっきりしています。そして第2層の心の闇と無縁な人が多いからこそ、素直に「分からないものは分からない」と言えるだけの強さがあるんです。

 

「分からない」と言えるのは、「分からない私であっても、それが何なの?」と思える、根底での自己肯定感が必要なんですね。分からないことを認められない人は、「それで私は否定される」とさえ思っていますから。

 

それは、これまで分かるということで優越感を得てきたので、分からないとなると劣等感が刺激されるからです。つまり「分かる・分からない」が自己評価と結び付いているということです。これは学業成績で判断されてきた、今の時代特有の観念なのでしょうね。

 

そのように、「分かる・分からない」というのは、いろいろな観念とガッチリ結びついてしまっているんです。本来は、ただ分かるか分からないか、その時々の理解にすぎないので、それを素直に認めるかどうかだけなんですけどね。

 

こちらはただ分からないことを質問しているだけなのに、相手は批判されたと受け取り「キー!」となってプライドを傷つけられたとか、手放したくない観念に触れられたとかで、防衛されてしまうのが常なんです()

 

でも、ただ素直に分からないことを受け入れ、無知であることを認めると、後は知らないことを知っていくだけになるんですよね。「あ、知りたい。何それ、面白い!」という好奇心が、自己防衛心に阻まれずに出てくるようになりますから、そうするとめちゃくちゃ楽しいんですよ。

 

自分のことも、人のことも、宇宙のことも、全部面白く感じるんですから、最高じゃないですか。そうなるともう<学び=楽しさ>になるんです。

 

「体験から学ぶ」という<無知の知の神>の在り方を、<神のリーラ>と呼ぶのは、やはりそれが楽しいからなんですよ』

 

 

2022年1016

※南部陽一郎さん

『好奇心は、破壊とセットになることが多いんです。なぜなら、「今、分かっている」という安定したところから、「分からないところ」に切り込んで真実を知っていくことは、これまでの状況や全体像をザクザクと刷新していくことになりますからね。そうするとそれは、「好奇心こそが、既成観念の刷新を可能にする」ということになるのではないでしょうか。

 

安定と現状維持ではつまらなくないですか? 私にはちょっと耐えられない()。古い観念を壊し、手放して、新しい世界に飛び込んでみませんか? もう古い地球は十分、次は新しい地球で遊びましょうよ!』

 

※釈迦

『<正見>も、実は好奇心がないとできません。自分を掘り下げていくほど「なるほど、こういう自分なのだな」とありのままの姿が見えてきますが、人は勝手に作った<自己像>を保持していますので、それと違う真実の自分が見えそうになると、「そんなまさか!」と簡単に目をそらし、それをなかったことにさえします。

 

<正見>というのは、そうやって守っている<自己像>を打ち崩して、<実像>を見ていくことです。それには「自分を知りたい」という好奇心は必須です。それがなければ、闇が深くなるほど「見たくない」という防衛も働きますから、その闇を突破できません。

 

そしてその好奇心とは、善悪美醜の観念を超えて、「すべての体験を楽しみ、それを学びにする」という境地に向かわないと出てこないものなのでしょうね。そうでなければ、<悪>が見えた途端、悪を罰する観念のある自分が出てきて、それ以上深めてはいけないからです。

 

でも「なぜその<悪>を抱くようになったのか」という人間心理のからくりを紐解いていくと、それはとても面白いものなのです。私も好奇心旺盛だったからこそ、解脱に至るまでの内面をありのままに見ていくことを楽しめた、ということだったのでしょう』

 

 

2023年27

『ホモサピエンスが全世界に広がっていったのは、「好奇心が強かったからだ」という説は、的を射ていたのかもしれません。私たち人類が、魂の資質を大いに発揮するためには、愛はもちろんのこと、好奇心も大事な要素だからです。

 

この宇宙泡では、愛と叡智を次元ごとに深めていきますが、ワンネスから完全に切り離されて個人に分かれたこの3次元では、その二つを意識的に発揮して、そこから学ぶことが求められているのでしょう。特に、愛についてはこれまで多く語られてきましたが、叡智を深めていくための動機となる好奇心については、あまり語られてこなかったのではないでしょうか。

 

なぜなら、現代ではその好奇心が、以下のような理由で阻害されていることが多いためです。

 ①グローバル化・ネット情報化のために、知識が表層的・拡散的になっている。

 ②そうした中で、これまでの既成観念や思考の枠組みの中で、各人が自分に都合の良い情報のみを選んでいる。

 ③そのようにして「何となく分かる」つもりになっているが、本当に分かっている訳ではない。


③の問題は特に深刻で、表層的に「分かっているつもり」になっている限りは、それ以上深めていこうとは思わないものです。結局、「自分はまだ本当に分かっているわけではない」という<謙虚さ>があって、はじめて魂とつながった<本来の好奇心>が湧いてくるのではないでしょうか。

 

好奇心は、ホモサピエンスの特性として誰にでも内在するものですし、この転換期である地球、とりわけこの日本に生まれた皆さんは、きっと純粋な好奇心をお持ちの方々なのではないでしょうか。


ですから、自分の魂を立ち上げて、新鮮な気持ちで毎日を暮らすための大切な特性として、持ち前の好奇心に素直に心を開いてみていただければと思います』

 

 

 

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