私とは

2020年5月26日

「<私>とはどのような存在なのでしょうか?」

 

『<この世>しかないと思っている方々にとっては、今、五感で意識している自分を<私>と思っているかもしれません。しかし<私>というのは奥が深く、普段意識している顕在意識(意識的自我/第3層)の下には、潜在意識としての個人的無意識(無意識的自我/第2層)や、<あの世>ともつながっている普遍的無意識(霊的自我/第1層:魂)までが、本来は誰にでもあります。

 

それらのどこまでを意識しているかは人それぞれですが、人生の前半はこの現実社会で自分や他者に向き合うための第2、3層の自我を鍛え、人生の後半になってからはその成熟した自我によって、より深くにある第1層の自己=魂と調和して生きていくのがよいと、ユングなどの心理学者は提案していました。

 

それを換言するならば、しっかりとした第3層の自我を確立しないまま、魂や霊的世界につながってしまうと、図4に示すように第2層とつながっている<幽界=アストラル界>に巻き込まれたり、<この世>とのバランスを崩してあちらの世界に浮いてしまうなど、様々な弊害が生じる恐れがあります。

 

しかし今、<アセンション>や<リセット・リスタート>に向けて、前世においてすでに解脱して本来は再生してくる必要のない魂が、続々と生まれてきています。そのような方々は、自我の確立以前に魂が覚醒してしまうことも少なくなく、その場合は<この世の私>としての自我のコントロール力の獲得が、1つの課題となります。特に日本では、成熟した自我をまずは育てるということが、全体的な大きな課題となっていました。

 

さて、次に<私>とは何かを、霊的世界にまで広げて捉えるならば、No.4に示すように横軸・縦軸のどこまで意識を伸ばせているかが、それぞれにとっての<私>といえます。横軸の第3層から第2層まで、さらに第1層まで意識化できれば、そこまでが私となります。さらに、直日(<あの世の私>との意識の接点)を経由して、5次元→7次元→9次元へと、<私>の意識をのばしていくことも可能です。

 

そして、そのように縦軸まで意識をのばして行った先が<あの世の私>となり、その<あの世の私>からヒントとして提示されるものが、この世の現実として立ち現れるようになります。<この世の私>が、それを素直に読み取り、応えていく場合は、<あの世の私>と<この世の私>のキャッチボールとなって、共にこの現実を創出していくことが可能になります。

 

しかし、一般的には<この世の私>は、生まれてから第2、3層の中に取り込んだ<観念>という色メガネによって、それぞれの現実をとらえています。その観念が強ければ、<あの世の私>からのヒントを素直には受け取れずに、自分の都合のいいように現実を見ようとする傾向があります。例えば<自己肯定・他者否定型>の色メガネを付けた人は、理想化した自己像を自分だと思い、すべてを相手のせいにする、ということも多々あります。

 

逆に、<自己否定・他者肯定型>の人は、常に自分を否定的に捉えて自信がなく、すぐに相手に合わせようとする傾向があります。そうした場合は、色メガネに適さないことは脳の認識や記憶から排除するので、<ありのままの私>というのは、なかなか見えてこないものです。

 

それでも、第3層の現実検討力がそれなりに養われている場合は、その冷静な目によって、ある程度はありのままの自分を捉えることが可能になります。また、第1層にまで意識が届いている方であれば、その魂には外界や内界を素直に見る目や、真実を見極めるための直観、輪廻を繰り返してきた経験などが備わっていますので、<ありのままの私>を認識しやすくなります。そのように、観念に捉われない目で<ありのままの私>を見て、受け入れていくことが、<私>の範囲を伸ばしていくことにもつながります。

 

そもそも私たちが<あの世の私>と<この世の私>として分かれている理由は、本来は神のもとに<ワンネス>であったことを一切忘れて、この世で<個の私>としてさまざまな体験をするためのものでした。ですので、まずは<個の私>としての自我を発達させ、この世を生きる<ありのままの私>を受け入れ、学ぶことによって自分を深め、その上で、本来の自分である<あの世の私>をどこまで思い出していけるかというのが、この地球ゲームの最終目的だったのです。

 

そしてさらに、<あの世の私>と<この世の私>として分かれていること自体も、より大きな目で見れば<神が見ている夢>であり、神の分霊として体験しているどの人生をも、<ありのままに見て、受け入れ、そこから学び>、その無数のドラマを神と共に楽しんでいるといえるのです。

 

ですので、<私>とは、この世に偶然放り込まれた、この世限りの存在ではなく、<あの世の私>が自らこの時・この場を選んで、生まれてきた存在なのです。そして一旦忘れたそのことを、どこまで思い出せるかにチャレンジしているのが、<この世の私>なのです。しかも、その<私>というのは、本来は神の分霊の一人として、今、この世を体験しているのだ、ということです』

 

参照図:【No.4】

 

 

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