人生回顧 ベートーベン:苦悩を超えて歓喜の歌へ

*ベートーベン:1770年~1827年、ドイツの作曲家・ピアニスト。宮廷歌手の父から、その才能をあてにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けた。20代には持病の難聴が悪化、40歳には全となる。音楽史において極めて重要な作曲家となった。

 

2018年1230

『苦悩を乗り越えて、どのように歓喜に至ったのか。どうも私の音楽家としてのあらゆる体験は、今回の人類の振り返りをする上でも集大成をなす、よき事例であるようです。

 

私が生まれた時代、芸術(アート)は音楽家であれ画家であれ、宮廷に雇われる形での経済保証のもとで、アーティストはその才を発揮していくという土台がありました。私も幼い頃から、そのようなところで演奏をする機会が多くあったのです。

 

自分の意志ではなく父からの強制だったという反発心もあったでしょうが、そのような場での演奏というのは、私の性には合いませんでした。自己満足的鑑賞態度もさることながら、演奏家に対する偏狭な注文、彼らの望む観念や枠組みの中での限定された表現形式などには、うんざりしてしまいました。私はそのような職業音楽家には、向いていなかったのです。

しかしそれこそが、私の自我や音楽性を育てていく上での大事な要素になりました。私は父親からのスパルタ音楽教育を受けた被・虐待児だったにも関わらず、自我を育てられたのは、(人からの注文ではなく)自由に作曲をする中で、自分の感情をそこに立ち現すことができたからでした。それはつまり、周りの人が求めている音楽を形式的に演奏するのではなく、自分の内面で感じていることをそのまま音にしていったということです。

 

それは幼い頃、ピアノの練習をするようにと何時間も部屋に閉じ込められていた時に、その気持ちを表すメロディーを探っているうちに編み出した方法でした。例えば、自分の怒りを表現してみると、それが一つの音楽になると発見し、なおかつ心は前よりもスッキリしていたのです。この時私は、自分の感情を精密に感じて音という形で外に表現することで、感情を抑圧せずに意識化し、アートに昇華させるというプロセスをとっていたのでした。

 

人とコミュニケーションする上での感情は、(わりとぶしつけだったので)それほど洗練されて育ったわけではありませんが、内的な感情世界を音楽によって表現する道が開かれたことによって、私自身が癒されてもいたのです。なぜなら感情的な発露の曲を弾くことによって、私は不思議と落ち着いた、爽やかな気持ちになることがしばしばあったからです。

 

その上、天とつながったように感じられる時は、素晴らしい音楽が私に降ってくることがありました。それはささやかなメロディの時もあれば、雷のように私を打つときもありましたが、そのような時は目の前の苦悩が一瞬で吹き飛んでしまうのでした。

 

そのような意味で、(人生早期の)苦悩というのは、天とつながるための条件を自らが選択したといえるのです。親に自分を受け止めてもらえないのであれば、その子は神に向かうことでしか、愛を得られないからです。私の信仰心はこのような幼い頃から培われていたといえます。それは痛烈なほどに光を求めてやまない心がわきたち、否応なく魂の覚醒がなされたということでもありました。

 

音楽によって感情を表現する術を得たこと以外に、私が自我をしっかりと確立できた理由としては、父のスパルタがはじまる前の3歳までの私は、母親によってある程度自由に暖かく育てられ、自我の基礎が作られていたということ。祖父など、話を聞いてくれる家族がいたことも大きく関与しています。祖父からは道徳的正しさを学びました。尊敬できる大人が1人でもいるということは、地上で生きる意味(とくに希望)を見出せました。

このように地上での苦悩を乗り越えられた背景は

1.3歳までの育てられ方。(愛情の基礎)

2.話を聞いてくれる人がいたこと。(援助者の存在)

3.感情を抑圧せず作曲に生かしたこと。(感情表現の道)

4.魂の覚醒をしたこと。(天への信頼・信仰心)

5.耳が聞こえなくなったことによる自己との対話。

が主な理由であったといえます。


さて、最後の5については、これから詳しくお話したいと思います。耳が聞こえなくなったことは、私にとっては最大の絶望でしたが、結果としては最良の恩恵にもなりました。耳が聞こえなくなったはじめは、周りから遮断されたような気持ちになり、孤独の穴の底に落ちてしまったかのような暗闇が私を覆いました。音楽家にとって最も必要であった聴力を失うことほどの悲しみは他にあるでしょうか。生きている意味さえも失ったような、精神的危機の状態で、私は精も根も尽き果てていました。

私は必然的に孤独の中に引きこもらざるを得なくなりました。それまでもそれほど多くの友人はおらず、特に社交的だったわけではありませんが、それでも気軽に話せないということは、外に向かっていく気持ちを萎縮させました。私はたった1人で自分に向き合うことでしか、活路を開けなくなったのです。

しかしそれがむしろ大切だったのだと、後になって分かりました。そこで私を支えたのは、私自身だったのです。もちろん、天からのインスピレーションは私の気持ちを刷新してしまうほどの力もありましたが、それにずっとひたっていたわけではなく、結局は自分で自分を支え続けなければならなかったのです。何度このまま倒れてしまえば楽だろうと考えたかわかりませんが、私はその暗闇の中で自問自答しながら、ある悟りの境地に達しました。

 

それはこういうことでした。苦しみから逃れようとするから、余計に苦しいのだ。神が与えたこの状況をそのままに受け止め、あらがうことなく、絶望も悲しみも味わい、それと共に生きていくしかないのだ。そうした後に、ちっぽけな私にできることは、そこから学ぶことくらいではないか、と。つまるところ、私が苦悩を歓喜に変えられたのは、あらゆる感情を否定せずに自分と向き合い、そのありのままを認められたからなのです。すると心境が一気に晴れていきました。

 

その時に出来たのが「交響曲第9番」でした。歌の前の長い前奏では、喜怒哀楽のすべて、人生で起こり得るあらゆることが器楽の演奏によって表現されています。それは個人のこの世での体験だといえます。そして最後の歓喜の歌で、悟りの境地に、すなわち神の御胸に到達します。それはある意味、生きている時であれば解脱に至る体験であり、死後であれば輪廻転生を終了して天界に移行する時であるともいえます。そのような時は、人は間違いなく、歓喜の中に身をひたすのです。そして次の学びの地へと向かうことでしょう』

 

 

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