あの世の川端康成・三島由紀夫・瀬戸内晴美(寂聴)の鼎談

 

◎対談のテーマ

 

2022年312

直子  「川端さん、三島さん、晴美さんの3人で、鼎談をお願いします。

お聞きしたいことは以下の4点です。

 

①第2次世界大戦の前、〈神国日本〉をどう捉えていたか。
②敗戦によってそれがどう変わったか。
③それを自分の中でどう消化したか。

④それが自分の自殺にどう関わったか。

(晴美さんは出家していなかったら、いつか自殺していただろうとのこと)

川端康成(1899~1972年/終戦は46歳の時)

三島由紀夫(1925~1970年/終戦は20歳の時)
瀬戸内晴美(1922~2021年/終戦は22歳の時)

晴美  『このような場を設けていただき、ありがとうございます。川端さん、三島さんには先日は憑依霊1が大変失礼をいたしました()。何とかアストラル界を抜け出て、今は精神界にまでたどり着きました。

 ここで個人的・集合的観念を見ていくために、この場をセッティングしていただいたように思います。これは私の問題でもありますが、やはりその時代の日本人に関わる集合的観念でもありますので、同時代に生きていたお二方にもご登場いただくこととなりました。どうぞよろしくお願いいたします』(と、畳に正座で頭を下げている)

 

三島  『まぁ、そう固くならずに・・・』

 

川端  『しかし、私たちが今回の話題を話すには、こういう背景の方が合うのでしょうね。ここはどこの和室でしょうか?()

 

晴美  『すみません。川端さんの鎌倉のご自宅風に、庭に面した縁側付きの和室を想定したのですが、よろしいでしょうか? テレビで見ていましたから、憧れで()

 

川端  『懐かしいですね()

 

 

◎大戦前の神国日本

 

三島  『遠くに山が見えて四季折々に花や木々が変化していく。山からの川は海まで流れ、それがまた雨となって山に降り注ぐ。私たち日本人は、水の循環と四季の変化がコンパクトに凝縮された、この自然を原風景としていた。だからこそ、魂を見失わずにいる民族として続いてきたんでしょうね』

 

川端  『同感です。自然の多様さ、その調和性、つながり、循環、そして生成と消滅というリズムは、まさに5次元の世界が可視化された形であるようで、それが外国人から見れば天国のような島だと言われたのでしょう』

 

晴美  『八百万の神々ということで、神羅万象すべてに対する畏敬の念を、自然を通して幼い頃から無意識的にも持つような環境が日本にはあったということですね。質問の「①神国日本をどう捉えていたか」という前提として、私たちの魂の根底には共通して、このような集合的無意識が根付いていたと思います』

 

川端  『そして、その無意識的な感性を、意識的にも語り継ぐために神話はありました。「天地(あめつち)はじめて開けし時」からはじまる古事記は、ほとんどそらんじることができるほどに教育もされていましたよね。

 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がまずは現れ、そして次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)が現れ、どんどん分霊していく。最初は現れてはすぐにお隠れになる独り神が、その後は神代七代の双神の系譜が続き、伊邪那岐・伊邪那美(いざなぎ・いざなみ)あたりになると国土を整え始め、その子どもの天照大御神・須佐之男命(すさのおのみこと)の代になると、地上に稲種を授けていく。

 天から邇邇芸命(ににぎのみこと)が降臨すると、天津神と国津神が折り合いをつけながら国土を収めていく。その天孫降臨の系譜の中に初代天皇はあり、その天皇が現人神として、天と通じながら祭祀を取り仕切る役割を担う。そしてそれぞれの民も、その神の分霊の一柱であるとして、そのような八百万の神の思想があるのが日本神話なのです。

 ですから、その自分たちが住まう日本というのは当然、神の国であると思っていました。もちろん、神といっても疫病神から福の神まで、さまざまな段階の、多様な神々が住まうこの世界ではありますが、「その内在する神に恥じない生き方をするというのが、人間としての目標だ」とも言われていたのです』

 

 

◎戦前の軍事教育の問題

 

晴美  『よく分かります。その根底思想は、私たちの代にも受け継がれていました。でも、〈ただし〉なんですよね、三島さん』

 

三島  『そう。私たちは川端さんよりも20年遅く生まれたために、より大戦に向けた動きが水面下で始まっている時期にあったようです。

 江戸幕府が諸外国から開国を迫られた時も、尊王攘夷運動が活発になったが、私たちの学童期もそのような時だった。だから教育でも、神話はもちろんのこと、神国日本については、より選民思想の面が強調され、なおかつその現人神として天皇がいるのだという崇拝思想までが、観念的に強化されていたように思います。

 川端さんのように大人になってから、そのような軍国主義が利用した〈神国日本像〉に変化していく様を見ていたならば、まだ自分の意志でその正誤を疑い、その観念を抜きとった元の本質である神話のみを、ニュートラルに保持することもできたかもしれない。

 しかし私たちは、その日本人の魂としての感覚(第1層)と、その上に付加された感情や観念(第2~3層)をごっちゃにして学ばされたものだから、問題がより深くなったのだと思います』

 

晴美  『三島さんのお話、よく分かります。私も小学生の時、「神とは何か?」と先生に聞かれ、「天皇です」と答えると褒められていました。

 神々の系譜の中での天皇の存在、そしてその祭祀の役割の重要性は、確かに真実だと思います。天皇は自分たちの源流に位置する神話世界と、人間世界とをつなぐ存在でした。

 ところが、その役割以上に過度に崇敬することが求められ、「天皇は神である、だから私たちも神である」とも教えられていたのです』

 

川端  『2000年以上続いてきた天皇制というのは、私たちが神々とつながっていることを無意識的にだけでなく、意識的にも感得する存在でした。天皇が天に祈り、感謝するという祭祀の役割があるからこそ、日本人も天(=魂)を意識し続けてこられた、というところがあったと思います。

 しかし、その面をことさら強調した軍事教育が盛んになったのは、確かにお二人の学童期くらいでしたね。それまでもそのような思想はあったのですが、軍の権力が教育にまで及び、「天皇のために命を惜しまず戦う」と、学校で教え込まれるようになりました。そのような教育によって、〈軍国主義に基づく神国日本〉の観念が、一気に集合的観念となって広まったということです』

 

三島  『日本は、どのような戦況になっても、必ず最後は「神風が吹いて勝つ」と思っていましたからね』

 

晴美  『私も敗れるとは、微塵も思っていませんでした。一致団結した魂でのつながり、それに加えて教育で強化された観念的補強が、自分たちを支えていました。

 そしてこの神国日本を護らなければならないというのは、利益や勝敗云々の表層的なものよりも、もっと深い魂から出てくる思いでもあったのです。このような思いは、みんな持っていたように思います』

 

 

◎戦後の日本の精神的状況

 

川端  『そのような思いが、②敗戦によってどう変わったか、に移ってもいいでしょうか。私は全体状況を俯瞰している方でしたが、それでも「まさか!」と思い、根底がぐらつく思いがしました。日本はどうなってしまうのかという暗澹たる気持ちで、視界が一気に狭くなりました。魂の目で見ていた世界が、心の不安に引っ張られていったからだと思います。

 肉親をほぼ亡くしている私にとって、天や自然は親代わりでもありましたから、その神の国日本が荒らされて行くことは、何にも代えがたい痛みでした』

 

三島  『私の場合、もう少し複雑だったと思います。私自身は病気で徴兵を免れましたが、それはまぁどうせ勝つのだから私が行かなくても、という気持ちがうっすらあったので、正直な申告をしなかった、という経緯がありました。だから負けたと知ると、その罪悪感が一気に噴出した感じでした。

 本来は戦うべきだったのだと自分を責め、その強烈な罪悪感をぬぐうために、今度は正義の怒りによって生きようとした。それがその後に「盾の会」を作った動機だったかもしれない。それは、イデオロギー・観念としての正義の怒りだったけれど、本当は自分自身への怒りでもあったように思います』

 

晴美  『私は中国で敗戦を知りました。日本の様子がどうであるかはほとんど知らない中で、それを突然聞かされ、しかも玉音放送で天皇自身がそれを伝えられました。「神は死んだ」と思うほどの衝撃でした。だんだんと状況が悪化していく様子を国内で見ていたならば、それなりの心の準備もできていたでしょうが、私は本当に寝耳に水の状態でした。

 それまで信じてきた〈神国日本〉。その観念がガラガラと音を立てて崩れ去っていきました。ただの観念であれば、表層部分の書き換えだけで済んだのかもしれません。ところが神国日本というのは、魂でも信じていることだったので、私はもはや第1層の魂部分もまるごと否定するようになりました。

 本来は神であっても勝ったり負けたりはするでしょうが、「神だから勝つ」と言われていたことをそのまま信じていたために、負けたのならもう神ではないのだ、と愕然としたのでした。

 人の話はもう信じまいと思いましたし、自分の神性すら否定されたような気持ちになりました。そのような教育を受けていた私たち日本人の多くは、そう感じてしまって、その結果、神を見失ったのではないでしょうか。

 そして、その屈辱を取り戻すためにも「勝たねばならん」と反動的になり、今度は経済の面で勝負するようになっていったのだと思います』

 

川端  『みんな大きく心が揺れていたのは共通ですね。私は〈神国日本〉というのは、観念上付加されたものはともかくとして、その深い意味では変わらないと思っていたのですが、三島さんはそれを正義の怒りで取り戻そうとし、晴美さんはそれを否定したということですね。確かに戦後の作家の自殺者も、私の年代ではなく、三島さんや晴美さんの年代の方々がほとんどを占めていましたね』

 

晴美『なるほど、そのような違いがあったんですね』


三島『そして戦後、三島タイプは右翼になり、晴美タイプは左翼になった…と』

 

 

◎未消化な部分への憑依霊の影響

 

川端  『キレイに分かれましたね()。では「(3)それを自分の中でどう消化してきたか」ということですね。私の場合は、喪失感がキーワードでした。それは元々心の中にはあったのですが、古き良き日本人の精神性がその後もどんどん失われて行く様を目の当たりにして、それもある種の喪失感となっていきました。

 世の中を見れば見るほどそれは強くなり、どんどん膨らんでいってしまったのです。消化するどころか、暗澹たる思いは強まっていくばかりでした』

 

三島  『私の場合は消化しようともせず、その奥底の不安や罪悪感を見ないようにするために、外に攻撃性を向けていったところがありました。私は祖母による支配的な心理的虐待から自らを守るために、〈自己肯定・他者否定型〉の観念を持っていたので、(詐病を使っても)自分は助かりたいと思った反面、今度は自分を正当化するために他者を攻撃する、という路線に走ったのでしょうね。

 だからそもそも自分の心を見て、それを昇華させていく精神的土壌はなかった上、言葉が達者な分、理屈をつけて観念を強化していくことには長けていたので、そちらにどんどん突き進むようになってしまった(笑)

 

晴美  『面白いですね、皆違っていて。私は消化するどころではなかったです。子どもも小さいし、本国への引き上げ、それに帰国したら母は死んでいるわ、住むところから探さなければならないわ、で。経済的・物質的に立て直すことに、みんな躍起にならざるを得ないというのは同じで、男性は特に外に意識を向けて、内面的葛藤は消化できなかったところはあると思います。

 そして女性は、男手を失った家庭の中で、子どももいてそれどころではないという状況も大きかったと思います。神国日本の教育を受けた私たちは、20代で敗戦を迎えましたが、その時代感覚からいえば、みんな小さい子どもがいる年代ですからね。

 そのように神を見失っている自分たちの心を消化しないままに、核家族になって子育てをしていくのですから、今のような荒廃した世の中になった始まりがあの時代だと言われれば、そうだろうなと思います。

 そして霊媒体質だった私の場合は、そのような未消化な心を抱えたままだったので、そこに憑依霊の付け込む隙があったということでしょうね。それに引っ張られて、どんどん闇に向かって行ったのです。

 それまでは何とかバランスを保っていた私が、帰国してから一気に憑依されていったのは、このような敗戦の影響が根幹にあったのだということが、時代的な流れと共に今はよく分かりました』

 

川端  『では「(4)それが自殺にどうかかわったか」ということですが…』

 

三島  『私も心を消化しないために、憑依霊の影響をどんどん受けていったと思います。特にあの時代、戦死者が幽界で一気に増えた時期でしたからね。

 一億総玉砕を魂で受け止めた人はともかく、観念的に受け入れていた人たちの無念さは相当なもので、その分幽界をさまよっている層が分厚くなってしまったようです。戦死者だけでなく、敗戦後の動乱や貧困の中で亡くなった人は、自殺者も含めてとても多かったでしょうから。

 その幽界の霊が、第2層の心の闇を消化していない人に、どんどん憑依していくということが、戦後に加速していったのだと思う。そして私もそれに漏れず、あぁいうナルシスティックな自死に至ったというわけです』

 

川端  『作家の多くは、天とつながってものを書くところがあります。私も消化しきれない喪失感は募っていて、心の闇はじわじわと広がっていました。そして三島さんが自死をされると、幽界にいる三島さんが今度は私に憑りついて、自死を誘って来るんですね()

 もう希望もなく、世を憂いていましたし、相当うつ状態にもなっていましたから、私も追いかけてしまいました』

 

三島  『あ、やっぱり私が誘っていたんでしょうか(笑)。確かにあの世に行ってからは、憑依霊と一体化して、いろいろな人を誘っていたように思いますが…』

川端  『あの世につながりやすい作家たちは、そういう影響は受けていたでしょうね。あの時代の、神を見失った作家の心の闇は深くなっていて、それに乗じて憑依霊は闇にさそってきますから、自分を貶めていってしまう、ということはあったのでしょうね』

 

晴美  『それは大いにありました。私も出家していなければ自殺していたと思いますが、第2層に消化できていないものが相当あり、なおかつ第1層の魂を否定していれば、あの世のつながり先は必然的に幽界になりますからね。そうなると闇に落ちていくしかないんです』

 

川端  『作家というのは、創作を生きがいにしている分、無意識層の影響を受けやすいのでしょうね。創作というのは無意識を何らかの形にする行為で、作家はそれを言葉にする職業ですが、それが神に向かう第1層の無意識を拾えるか、第2層の無意識に押し流されてしまうかが、天とつながった作品にできるかどうかの分かれ道です。

 戦後作家の多くは、敗戦によって第1層を見失い、第2層も消化できない中で、そこと共鳴する憑依霊の影響も加わって、次々と自殺をしていったのでしょう』

 

 

◎日本人の役割

 

晴美  『川端さん、この辺でここまでの話をまとめていただけますか?』

 

川端  『はい。もともと日本は神の国であったと思いますが、それに軍国主義の神国日本思想が観念として付加されてしまい、そして敗戦。天皇は人間宣言をして神ではないとされたことにより、神と人のつながりが断ち切られてしまいました。

 なおかつそれから神話も教育から排除され、その根幹から揺るがされる衝撃を日本人の私たちは消化しないままに、復興に走り出してしまったということです。すると第2~3層での〈金、物、勝つこと〉に躍起になり、神を失って紙(紙幣)を信じる民族へと、たった数十年で様変わりしてしまった、ということだと思います。

 そしてそれは、もっと大きな目で見るならば、時代のはじまりを担った日本が、人類のあらゆる問題を凝縮して引き受け、この時代の終わりに至るためのプロセスだった、とも言えるのではないでしょうか。つまり私たち日本人は、人類にどのような問題があるのかを総括して見定め、それを学びにしていくための体験をしていたということです。

 それは、その時代の個人の振り返りだけでは分からない、壮大な話でもあるために、こうして天に戻った私たちと、地上のみなさんとで解明していくことでもあったのでしょう。私たち日本人は、そのように包括した形で最後にすべてを意識化していくことが、役割だったのだと思います。

 なぜなら「天地はじめて開けし時」から、つまり〈大元の神〉が分霊を生み出し、そこから各次元ごとの陰陽ができていくという「宇宙の始まりからの神々の系譜」を、私たち日本人は神話の中に収めている民族なのですから。体験をはじめたからには、それを学びにかえるところまでが責任だった、ということだと思います』

 

 

◎鼎談を終えての感想

 

2022年313

直子  「鼎談を終えての感想をお願いします」

 

晴美   『胸がいっぱいです。感動しました。一人ではとうてい学びに変えられない壮大なことが、こうして三者三様の目で見るからこそ分かってくることもあり、その時代を生きた同志としての思いと、尊敬とが合わさって、感謝に堪えない気持ちです。

 そして、地上のみなさんにも大変お世話になりました。思い返せば、アストラル界で抜け殻のようだった時から付き合っていただき、あの時からもう2週間になるのですね。長いようで短かったような、不思議な気持ちがしています。

 はじめ、憑依霊に乗っ取られていたと分かった時には、無駄な人生を送ってしまったと愕然としました。しかしそれがなぜ起こっていたのかを、生育要因、時代要因、さらには日本の役割にまで広げてこうして意識化していくと、無駄どころか何と学びの濃い貴重な体験だったのかと思えます。それを、なんだか面白かったなとさえ、思えている自分がいます。

 そして、私の〈人生回顧〉は単なる個人的なものというよりも、アストラル界と幽界とを切り分けて考える必要性や、日本人の戦後の集合意識の変遷を、憑依の問題ともからめて総まとめしていく必要性とも合致していた、ということですね。

 そう思うと、大正・昭和・平成・令和というこの激動の時代を約100年近くも生きてきた意味は、この振り返りのためにあったのではないか、と思ったほどでした。体験を学びに変えていくことが、生きている目的だとするならば、まさにそうなりますよね。

 そのように俯瞰して見るならば、私はこの役割を担って、あの時代に生まれて苦労することもすべて見越して、飛び込んでいったのだと思います。そして、その中であらゆる感情と観念を濃厚に味わい、第1~3層がフル回転するような人生で、「あぁ、もう十分だな」と思えるところまでやり切ったように思いました。

 〈解脱に至る道〉というのは、煩悩からなるべく離れてそぎ落としていくことだと思っていましたが、煩悩のすべてを味わいつくし、もう十分だと満足して手放せるようになることなのかもしれませんね。

 

今、心の中が温かいです。それは、自分のすべてをありのままに受けとめている〈愛〉なのだと思います。そのような愛を分かるための人生だったようにも思います。本当にありがとうございました』

 

 

 

【目次】へ戻る