立花隆<あの世>でのインタビュー8  宗教と自我の未発達による憑依の問題:瀬戸内寂聴×麻原彰晃×空海

 

◎背景の違い

 

2022年75

立花  『今回も目を見張る異色の顔ぶれです()。麻原彰晃さん、瀬戸内寂聴さん、空海さんに、宗教の問題、憑依の問題などについてお伺いします。

 麻原さんも瀬戸内さんも、その名前の時は憑依されていた人格だということなので、それぞれ本名の松本智津夫さん、瀬戸内晴美さんのお名前でお呼びした方がいいですかね?』

 

松本  『麻原彰晃という名前には、みなさんカルトの悪印象がこびりついているのではないでしょうか。このところの私の変化について、まずはご報告させてください。

 私は今回、〈天地の対話〉によって人生回顧を手伝っていただきました。はじめは幽界に麻原彰晃と名乗る憑依霊と混濁した意識のまま共にいたのですが、その憑依霊と松本智津夫を分離していただき、私は〈新しい地球〉のアストラル界に行くことができました。その後、10日ほど集中的に〈天地の対話〉をしていただき、昨日ようやくアストラル界を抜けて精神界に来ることができました。

 しかし自分を麻原だと思っている憑依霊は、まだ幽界にいます。その霊は以前も死刑に処されたということで、地上への恨みたるや相当なものでした。そのような事情がありますので、本名でお呼びいただけると幸いです』

 

立花  『分かりました。本当は「ヒトラー×三島由紀夫×麻原彰晃」の対談の話もあったのですが()

 

松本  『派手にやらかした三人ですから、共感するところは多かったでしょうね()。でも晴美さんと空海さんという、私とはまったく違う角度から宗教に関わってこられた方との話で、見えてくることもまた大きな学びになるだろうと期待しています』

 

晴美  『確かに違うからこその気付きもありそうですね。私も本名の晴美でお願いします。寂聴は「コスプレ尼僧」と言われたほどで()、あの「饒舌な、ナンチャッテ尼僧」のイメージと、「本来の私」には大きなギャップがありますからね。実は私も憑依されていたタイプだったんです。

 でも、今の時代の憑依というのは、本人もまったく無自覚にそうなっているものなんですね。小脳から操作して、長い時間をかけて一体化していくために、本人もその憑依霊が自分だと思っていくのだということでした。

 確かに私も松本さんと同じく、幽界で憑依霊と混濁している中、同じく〈天地の対話〉で人生回顧をさせていただいた時にそれを指摘されて、何とか憑依霊と決別できたという状態でした』

 

立花  『晴美さんと松本さんが憑依されていたタイプだったのは、まずはお二人とも乳幼児期のネグレクトがあり、それで肉体脳の発達が滞っていた。そのため、本来は閉じるはずの第1層の直日が開いたままだったので、幽界・アストラル界につながりやすかった、ということが根底にあったためですね?』

 

晴美   『そうです。私は乳児期の病気のために、結果的にはネグレクト状態になりましたが、でもその後は多少愛された経験もありました。

 それに比べて松本さんは、もう少し過酷な被虐待の幼少期だったでしょうし、時代も戦後の核家族の中で、コミュニティーや大家族の多様な人たちに世話をされなかった、という違いはあると思います。

 その一方で、私には敗戦による虚無感があり、その影響も大きかったように思います』

 

立花  『そういう背景の違いがあるので、晴美さんの方は怒りや恨みを他者に向けるほどには、情緒的ダメージはなかったということですね。

 ただし、神国日本という観念を教育の中で植え付けられ、それが敗戦によって崩れて虚無感は残ったということなんですね?』

 

晴美  『そうです。その(根底にあった)虚無感から、自殺がよぎることもあったのですが、私の場合は最終的に出家をしたことによって救われました』

 

松本  『私は晴美さんより情緒的発達が幼く、そのように出家を健全な方向に向かうための動機としてより、教祖としての支配欲を満たすために利用していました』

 

晴美  『出家しても私のアイデンティは作家だったので、本来の意味での健全な動機による出家とは言えないでしょうけどね()

 でも出家したことで、性欲によってつながっていた低俗な憑依霊からは逃れられました。私は出家してもお酒もお肉もいただきましたが、性行為だけは断ちましたから。

 それはとても大きな効果でしたし、また〈支配欲〉に流されなかったのも、女性や作家だったからという以上に、つながった幽界の憑依霊が〈人のために〉と思っている上層の霊だったからでしょうね。

 つながり先がそうなったのは、私が松本さんよりは多少の情緒的安定性があったということもありますが(それでも一般よりは幼いです)、やはり〈性欲〉を断ったことでより上層の霊につながった、という影響の方が大きかったように思いますね』

 

 

◎密教における瞑想と性の問題

 

立花  『確かに、オウムに比べると寂庵は癒しのスポットのようでしたね。すみません、空海さんを差し置いて話を進めてしまいましたが…』

 

空海  『いえいえ、お二方の話を面白く聞いていました。今のところ出た違いは、「情緒的発達の程度の違い、性的快感を伴っていたか」でしたが、「説法型の在家向けの寺と、瞑想修業型の教団」という違いもありますよね。〈瞑想と性の問題〉は、宗教、とくに密教系の私たちにとっても大きな問題でした。

 密教では、瞑想で性的快感を得ること、そして〈聖なる性〉ということで、男女の交感によるエクスタシーを、よい意味での天との一体感にまで昇華していけるかどうか、という試みをしていました。

 私たちの時代は、まだ自我が成熟できるような社会的基盤があったにも関わらず、また気を付けてはいても、俗に流れてしまう危険性は十分ありました』

 

立花  『空海さんの時代は人間的には成熟し安定していたにも関わらず、〈性〉が俗に流れやすかったというのはなぜでしょうか?』

 

空海  『やはりそれだけ強烈な快感があるからでしょうね。実際の行為に至らなくても、瞑想において性的快感と同様なものを得ることもあり、それにはまり込むということも起こります。

 瞑想というのは、意識を内界に向け、そのルートから天とつながるための方法です。しかし釈迦が最終的に示した瞑想法は、自己の心をありのままに観察する、という〈正見〉を軸としたものでした。

 体、そして心、思考に至るまで、わき起こるものをすべて意識化していく〈正見〉は、第2層の心の闇に光をあてて、意識が第1層にまで至って解脱をするための最適な方法だったのです。

 そして釈迦は、出家して修業をする場合は性行為を禁じ、その欲に流れないよう自制をするための戒律を作っていました。そうやって煩悩から離れることで、その欲望との距離を保っていたのでしょうし、特に性欲は刺激するほどに増大していくものだ、という認識があったからだと思います』

 

立花  『オウムも最初は性行為を禁じていましたが…』

 

空海  『はい。ただ、性行為を禁じても、心の中での欲望は消えません。釈迦の解脱瞑想は、その欲望自体から少し距離を取った俯瞰的視点で、それを観察するというものです。生じては滅する、〈無常〉ということを分かった上で見ていくと、いずれその欲望は消えていくという、それにはまり込まずに「ありのままを正見する」ということです。

 それが、第2層の心の闇を見ていくための、最適な見方であったのだと思います。そのような観察瞑想は、心理学的アプローチと同じだとも言えるのではないでしょうか』

 

松本  『なるほど、私は完全に没入型の集中瞑想を指導していましたし、性欲をむしろ刺激する瞑想法も取り入れていました。そのような〈性〉の肯定は、密教を盾にしているところもありました』

 

空海  『密教は、釈迦の示した横軸(この世)における解脱をクリアしている人が、縦軸(あの世)の段階を上げて、より高次元の世界とつながるための瞑想です』

 

松本  『なるほど。では横軸段階をすっ飛ばして、縦軸につながろうとしたために、幽界につながってしまっていたということですね』

 

空海  『第2層の心の闇がある状態で、密教的な集中瞑想をしようとすると、どうしても幽界とつながります。ごくたまに、ポンと高次の神秘体験をすることもありますが、やはりあの世のつながり先というのは、自分の心の闇に相応するところとなるからです。

 また性的快感を伴うクンダリーニ瞑想も取り入れていけば、それは幽界との結びつきを強化していくことにもなります。

 そして、今の時代は憑依霊も巧みになり、簡単に憑依されてしまいますから、松本さんだけでなくオウムの方々の多くも、同じように憑依されていたのではないでしょうか。そうでなければ、あれほどの集団同調は起こりにくかったでしょうから』

 

 

◎閉鎖性と拡大連鎖

 

空海  『さらに、瞑想をするにしても、閉鎖的な環境の中に閉じこもって行っていたようなので、それが現実感覚を喪失することにつながったのでしょうね』

 

松本  『はい。私は片目しか見えず、だんだんその視力も失われていき、その影響もあって内的世界に籠っていきました。それを信者にも強要して、窓を閉め切り、アイマスクをしての瞑想や、信者でない親との交流も断ち切らせるなどしました。

 その結果、現実との関わりを断絶した、孤立的・閉鎖的な妄想集団になっていったように思います』

 

立花  『集団的な現実との乖離は、そのような背景があったのですね。晴美さんはそれを聞いて、どう思われましたか?』

 

晴美  『私の場合は、〈性断ち〉をしたこと、社会的にオープンなスタンスを保ち、いろいろな人と対話していたこと、瞑想はせずに説法が中心だったこと、なおかつ作家だったので支配よりも創造に興味があったことなどが特徴でした。これらの点が、私たちの違いを生んだように感じました』

 

空海  『瞑想だけで解脱に向かうのは、今の時代は極めて難しいです。そして、精神的に健全でいるためにも、人と関わることは大切ですね』

 

晴美  『そうですね。いろいろな人との関わりで、視野が広がっていくこともありましたから、それは大事なことでしたね。また、松本さんとの違いについては、同じように憑依されていたタイプと言っても、どのレベルの憑依霊かによって、ずいぶん違うのだなと感じました』

 

立花  『確かに、松本さん自身が発達障害や人格障害のために、誇大妄想や被害妄想を抱く資質があったと思いますが、それに共鳴した憑依霊というのは、かなり邪悪なタイプでしたね。それは先ほどおっしゃっていた、その憑依霊自身が元・死刑囚だったから、ということでしょうか?』

 

松本  『おそらくそうだと思います。私が死刑になった時に、「また死刑か!」とその憑依霊は言っていましたから。死刑になると、怒りや恨みがかなり増強されて、しかも現代は死後世界を否定している人が多いですよね。だからそのような人は幽界に行って、その恨みを晴らすべく、また地上の人に憑依するという連鎖が続いているようです。

 オウムでは輪廻を説いていましたし、私自身は〈あの世〉の存在を肯定していたのですが、憑依霊に憑かれているとそれも自分だと思い込むので、死後は一緒に幽界に引っ張られていったようです。そういう人は今、とても多くなっているということでした』

 

立花  『それは戦後の唯物主義・科学主義が観念として定着して、〈あの世〉を否定しているということがまず前提ですね。だから死後は、本来の〈あの世〉の一段階目としてのアストラル界には行かずに、地上層の延長にある幽界に留まってしまったのでしょう。

 なおかつ、戦後は核家族化して閉鎖的な中で育つことによって、子どもの自我発達が未成熟になっていった面があるようです。そのために自我境界が曖昧になった人も多くなり、幽界の憑依霊はますます憑依しやすくなった。そうやって地上と幽界が混濁した状況になっているということですね。

 しかもそのように憑依された人たちが死んだら、また憑依霊と一緒に幽界に行って、再び地上の人に憑依していくという、止めようのない拡大連鎖が起きているということですね』

 

松本  『そうやって連鎖を繰り返していくほどに、悪意や邪悪性が増強されていく憑依霊は増えていると思います。私自身の経験から察するに、現代の凶悪犯罪のほとんどが、幽界低層階の邪悪な憑依霊の影響を、たぶんに受けているのではないかと思います』

 

立花  『確かにそれは納得します。これだけ経済的には豊かになったのに、目を疑うような虐待や犯罪が増えていますからね』

 

 

◎まとめ:宗教とは

 

立花  『では、この辺で空海さん、宗教というテーマでこれまでの話をまとめていただけますでしょうか?』

 

空海  『宗教とは、よりよく生きるための指針を示すものです。しかしそこに教祖のエゴが入り込んで、信徒に自分を神に準ずる者として帰依させる、という間違った方向に流れたことが、戦後の新新宗教の問題としてありました。

 それはその教祖自身が、自我発達が未熟な子どものまま、幼児的な万能感を持ち続けていた、という問題が背景としてありました。それ自体は個人的な問題でもありますが、戦後の日本の〈心の闇〉を、象徴的に立ち表したことだったのではないでしょうか。

 日本での仏教は、聖徳太子の頃から神道と合わせて信仰されてきましたが、それは特定の教祖や神を掲げずに、〈八百万の神〉がお互いに慈悲心をもって、調和した社会生活を送るための道徳心を養うためのものでした。

 また仏教は輪廻を解き、カルマとしての因果応報を基盤としていますから、今生の欲だけに流されないように、人々のエゴを律する効果もあったと思います。

 仏教は、小乗・大乗・密教と多角的に分岐派生していきますが、そのどれが正しいということではなく、その人の魂の段階においてどれがフィットするかというもので、どの分派もそれなりの叡智を有するものです。

 ところがその全体像を捉えないまま、その中の都合のよい部分だけを拾って悪用した結果、オウム真理教のように問題を引き起こすことになったのでしょう。

 しかしそれは、仏教自体の否定ではなく、やはりその教団の問題、ひいてはその闇を抱える日本の集合的無意識の問題だった、ということです。

 教えとして正しく仏教思想を学ぶならば、それは横軸(この世)と縦軸(あの世)の叡智がつまった体系化されたものになっていると思います。でも、これは男性的悪癖なのでしょうね、あまりに膨大な思想体系となってしまい、一般の人々がそれを学ぶにはかなり難解なものになっています()

 しかし、仏教全体が言わんとすることは、以下の6つに集約されるシンプルなものですので、ここで改めて確認しておきましょう。

 

1)物事をありのままに正見すること

2)その上で八正道を基本とする実践をすること(※涅槃に至るための8つの実践徳目:正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)

3)因果の法則でこの世は成り立っているということ

4)死後も魂は存在し、輪廻を繰り返して学んでいくということ

5)瞑想法も取り入れながら解脱に向かう道もあるということ

6)ただし、何事にもとらわれずに、バランスよくやることが大切だということ(※それを中道という)

 

そして、この中でも(6)が最も大事なのですが、(6)に至るにはやはり(1)の正見ができなければいけません。オウムの問題を一言でいえば、「正見ができずにバランス感覚を失っていった」という問題だったのではないでしょうか。

 そのバランス感覚を持つには、自我が成熟していないと難しいのですが、現代の問題というのは成熟した自我が育ちにくい環境になっている、ということです。そして自我が未成熟であれば、憑依霊に憑りつかれてしまう危険性は多大になります。

 そもそも瞑想というのは、自我が十分に育ち、正しく思考できる社会的な自我が確立した段階になって初めて、内的世界の扉を開けるためのツールです。その自我が弱いにも関わらず瞑想をするならば、幽界の憑依霊に自我を明け渡してしまうような危険性を伴います。特に神秘的な瞑想というのは、自我機能や自我境界を意識的に弱めていくものですから、逆にしっかりとした自我基盤がない場合は危険なのです。

 ですから、これから瞑想を試みる方は、呼吸瞑想や観察瞑想など、自我を手放さない安全なものを選ばれるか、集中瞑想をされるにしてもその経過を見守ってくれる師匠に、しっかりと付いてもらう環境を整えた方が安全です。

 そして、成熟した自我が育った私たちの時代でさえ、性がからむ瞑想はバランスを欠きやすい傾向がありました。ましてや現代の憑依霊が求めているのは、まずは性的快感ですから、「憑依霊との結託にならないように、いっそう注意深くなって、まずは自我のバランスを育み、その上で瞑想に取り組む姿勢が必要だ」というのが、オウムの体験を通した学びなのではないでしょうか』

 

立花  『空海さん、まとめをありがとうございました。

そのように瞑想などは正しく活用すればよい効果をもたらす一方で、現代においては神に成り代わった教祖によって、信者を支配するための手段として悪用されてしまう危険性もよく分かりました。

 しかも、その裏には憑依霊の問題がからみ、何度もくり返し連鎖してその影響が拡大していくという、幽界の問題も明らかになったと思います。

 松本さんと晴美さんの実体験を伴った学びの共有からも、それがうかがえましたね。お二方ともありがとうございました』

 

 

 

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