雑誌 岩戸開き 第10号 中野真作×三上直子 対談 第1回「本来のノンデュアルとスピリチュアルとは?」
この対談は、岩戸開き9号の三上の記事「ノンデュアルとスピリチュアル」を受けて始まり、ノンデュアル(非二元)の立場の中野真作さんと、スピリチュアルの立場の三上が、伊勢にあるサラ企画の古民家で4時間にわたって意見を交わしあい、進められました。
中野真作さん: スペースまほろば代表/スピリチュアルセラピスト。身体をこわしたことで最初の覚醒。癒しと目覚めがライフワークになることを直感。大学院修了後、一般企業で経理マンとして勤務し、1996年に退職。人間の癒しとスピリチュアルな成長を目的とした「スペースまほろば」の活動を開始。現在は、個人セッション、グループセッション、オンラインセッションなどを通して、目覚めをベースにした、苦しみからの解放、覚醒・悟りへの道をサポートしている。著書:『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる』(SIBAA BOOKS)、『癒しと目覚めQ&A』(SIBAA BOOKS)
岩戸開き 第10号 中野真作×三上直子 対談
第1回「本来のノンデュアルとスピリチュアルとは?」
◎第9号の連載原稿について
三上 今回は対談のお願いに応じていただき、誠にありがとうございました。最初にご連絡したときに、第9号の連載原稿をお送りしましたが、あれはどうご覧になりましたか? 「これに応じていただける方は、果たしているだろうか」と思っていたのですが…。
中野 あれは何度も読ませていただきました。で、何だか面白そうだなと思いましたし、私の中に響くものがありました。細かな内容は覚えていないんですが。あと、三上さんの『“則天去私”という生き方 心理学からスピリチュアリズムへ』を読んで、今までしてこられたいろんなことに、そしてそこから今、こういうことをしておられるということにも興味があったので。
三上 ありがとうございます。「岩戸開き」の連載は創刊号からずっと続けていて、毎回それなりに穏やかに書いてきたつもりなんですが、あの原稿はどうもチャネラーになって書いた感じで(笑)。
普段はこちらの蓮さんや友紀子さんがチャネラーで、私は審神者役なんですが。その日は朝早くに目覚めて、この文章がブワーッと頭の中で流れたんですね。だから、いつもは「ですます」調で書いているんですが、これは「である」調になっているんですよ(笑)。
中野 なるほど、それは面白いですね。
三上 内容的にも、結構、挑戦的ではなかったですか?
中野 へぇ~、いや私は他の文章を読んではいないのであまりよくわかってはいないですが、普通に受け取りましたよ。そんなことはまったく感じなかった。
三上 あ、じゃあよかったです (笑)。この原稿をはたしてそのまま出していいものかと思って、それからはじめて非二元の本を3冊読みました。
中野 え~、この後に(笑)?
三上 そうなんです(笑)。
◎ノンデュアルとスピリチュアルの違い
三上 まず1冊目が『バタ足ノンデュアリティ』(金森将)でしたが、今一つわからず、2冊目は『悟りを生きる』(スコット・キロビー)で、なるほど非二元とはこういうものかと納得したんですけど、でもハウツーが中心だったので、もう一冊と思って中野さんの著書『「私」という夢から覚めて、わたしを生きる』を読んで、「あ~、この方だ!」と思ってラブコールしたわけです(笑)。
そもそものはじまりは、「岩戸開き」第7号の「日本の女性の覚者たち」という特集からだったんですね。その中で非二元の覚者9人が紹介されていたんですけど、結局、非二元とは何かがよくわからず、その後、YouTubeも見てみたんですが、みなさんおっしゃっていることはまちまちですよね。ご覧になりましたか?
心理学でも、100人のユング派の人が居たら100通りの解釈がある、と言われていますが、それと似た感じがしました。
中野 知り合いの方もいるんですが、実は雑誌もYouTubeも見ていないです。
三上 私もYouTubeはあまり見ないのですが、投稿するにあたってはじめて見てみたんです。実はこれまで、非二元にはぜんぜん興味がなかったもので。
中野 え~、そうですか。
三上 というのは、ラメッシさんの『誰がかまうもんか!』という本をご存知ですか?
中野 はい、昔よく読みました。
三上 たまたまある方から送ってもらって、2回読みましたが最後まで行かない…。退屈になるんですよね(笑)。
中野 あはは(笑)。
三上 だから今回はじめてちゃんと非二元の本を読んだのですが、いまだに非二元とスピリチュアルがどう違うのかがわからないんです。しかも、今のスピリチュアル自体が、本来のスピリチュアリズムとは違っていて、引き寄せの術とか、ポジティブなことを考えようとかが主流になっているようで…。
中野 そうですね、ほとんどの人がそのことをスピリチュアルだと思っていますね、今は。
三上 それが私はすごく残念で、本来のスピリチュアリズムとはどのようなものかを伝えたいと思い、片隅で連載してきました。今世紀に入ってからのものは、私は<なんちゃってスピリチュアル>とか<キラキラスピリチュアル>と言っているもので(笑)。
◎非二元的覚醒とスピリチュアルの霊的覚醒
中野 本来のスピリチュアリズムというのは、非二元ということだと私は思っているんですけど。
三上 私も同感なのですが、その辺をもう少し説明していただけませんか?
中野 本来のスピリチュアルは非二元だと、私ははじめから思っているんです。思っているというよりも、知っているといったほうが正確かもしれませんね。ユングがBBCのインタビューを受けた時、「あなたは神を信じますか?」と聞かれて、「私は神を信じる必要はありません。私は神を知っていますから」だったそうですが、私が24歳の頃、最初の一瞥体験をしたとき、ユングが言った言葉の意味がわかりました。神、スピリット、霊などの言葉は皆同じものを指していて、それは信じたり信じなかったりするものではなくて、知ればというよりも、思い出せばいいだけのことなんです。
三上 そう言えば、ユングの「信じる必要はなく、知っている」や、中野さんの「知るというより、思い出せばいい」というのは、私もよく言っていますね(笑)
中野さんのその24歳のときの一瞥体験というのは、スピリチュアルと非二元と、どちらに近いものだったんでしょう?
中野 どっちでもいいと思っていますし、それが違うと私は理解していないので。
三上 でも、ナチュラルスピリット社長の今井さんは、第8号で以下のようにはっきり書いておられるんですが。
(注)「岩戸開き」第8号P127
「スピリチュアルと非二元は違ふ。「覚醒」「目覚め」といふ言葉もスピリチュアルな人と非二元の人では意味あいが異なる。「覚醒」「目覚め」といふ言葉は本来、非二元(悟り)の用語だ。意識が真に目覚めた人に当てはまる言葉だ。スピリチュアルな人というのは、スピリチュアルなことに気付き始めた、エネルギーを感じるやうになったといふ意味あいで使われてゐる。それは「覚醒」ではない(後略)」
中野 なるほど。
三上 私はスピリチュアルについての認識自体が、本来のスピリチュアリズムと違うようにも感じるのですが、雑誌の影響力は大きいでしょうから、もう少し明らかにしておきたいと思い、今回の対談もお願いしました。
でも、これまでのお話では、中野さんも非二元とスピリチュアルの間に境界線は引いていない、ということなんですね?
中野 いやいや、一般的に見たら、非二元とスピリチュアルは明らかに違うというのはわかっていますよ。ただ私の中でスピリチュアルという言葉は、本来は非二元を表わす言葉なのになぁ、と思っています。
三上 第9号の原稿で、私と蓮さんの霊的覚醒を書きましたが、それは非二元的覚醒なのか、スピリチュアルな霊的覚醒なのかといえば、どちらに思われましたか? もし、それらを分けて考えるならば…。
中野 霊的というのはスピリチュアルということですよね? 今、一般的にスピリチュアルと言っているのは、分離が前提になっているんですよね。それに対して、非二元というのは分離はないことを思い出すということで。
三上 スピリチュアルな人が、分離が前提になっているというのは、どういう意味ですか?
中野 例えば、「私とあなたは違う存在だ」、「神と私は違うものだ」、「この世界は、別々のものがたくさん存在している」など、そのような分離が前提になっているということです。
三上 ああ、そういうことなんですね。でも、本来のスピリチュアリズムとは「私は神の中にいて、私の中に神がいる」ということで、すべては大元の神の分霊である。そういう意味では、神と私の分離はないですよね。だから、その分霊としての魂を磨いて、大元の神のもとに戻るプロセスを歩む、ということなんですが。
中野 そうなんですか? そうなんですね?
三上 そうなんです! そう言えば、中野さんの本に書かれていた参考図書はほとんどが非二元の本で、心霊学の本は見当たりませんでしたが、これまでお読みになったものはありますか?
中野 そう言えば、世界の3大霊訓という本もまったく読んでいません。
三上 では、必要に応じて説明しながら進めますね。実は私は、北海道の神社で生まれて小学校1年まではそこで育ちましたが、その後はずっと東京で神道とは無縁な生活をしていました。でも結局、人生の後半に欧米のスピリチュアリズムを学ぶようになった。そこではじめてわかったのは、「万物に霊魂は宿る。だから私たちがするべきことは、その魂を磨くことだ」ということで、それは日本の神道も欧米のスピリチュアリズムも同じだった、ということなんですね。
中野 そうでしょう、だってすべての根っこは同じなんだから。ただ私がそれを聞いてちょっと抵抗を感じるのは、「磨かなくてもいい。元々そうなんだから」と思っているからなんです。
三上 あ~、つまり非二元においては、その大元の神に至るまでの段階、プロセスということは、まったく考えていないということですね?
中野 ただし確かに分離という3次元の世界の視点から見たら、何らかの実践は必要だと思うんです。ただそれも「磨かなくても、それでいいんだ」ということを最初から知った上で、やった方がいいんだろうなと思っているんですよね。
三上 「これはそれぞれに与えられた物語で、本当は幻なんだ」と思いながら、この3次元を生きるのと、これを確固とした現実と思って3次元を生きるのは、まったく違いますからね。
中野 そこです。