<天地の対話> 向田邦子さん
1.<あの世>での<人生回顧>
みなさん、こんにちは。向田邦子です(ラジオパーソナリティ風)。
これから、飛行機事故で急死した人は、どのような死後の経過をたどるのか、私の体験をもとに解説したいと思います。
どうも私は、飛行機事故で若くして亡くなるのではないかというのは、魂の部分でかすかに思っていたことでしたし、潔い引き際という意味でも、天に回収してもらうことは本望でした。
しかし直木賞をとって「よし、これからだ!」と未来への希望を持っている時というのは、人間的な感情としては「何で今なの? まだやりたいことはたくさんあったのに!」という、いわばお決まりの地上への未練、納得のいかなさ、いきなりすぎるという怒り、残してきたもろもろのことへの愛着などがこみ上げ、まずは死を受け入れたくないと拒否をしたようです。そのため、ショック状態の中で相当長く茫然としていました。
それは、マイケル・ジャクソンも、ジョン・レノンも同じだったと思いますが、魂としては了解していても、感情を含めた人間の自分は、心の準備が間に合わないので、何が起こったのかを理解したくないという防衛心がまずは働くようです。そこで、ショック状態が終わってからは、アストラル界の中層の慰安の部屋のようなところで、夢うつつに地上の動向をみながらゆっくりしていました。
そこから私が目覚めたのは、ジョン・レノンさんがお話されるのを聞いたからでした。彼はまさに時代の寵児でしたから、私の中でもヒーロー的存在でした。その彼が私より1年前に亡くなった時には、「なぜ彼が」という憤りがあったものでした。しかしそれが、一見被害者のように見えて、魂が受け入れていた死であったという見解に、自分の死を重ねて、パチッと目が覚めたのでした。
それから私は、自分の人生を振り返りはじめました。感情体験というのは、振り返ってみたとしても豊かな輝きを持っていて、それが玉手箱の中に入っている宝石であるかのようにいとおしく感じたものでした。喜怒哀楽と大雑把に言いますが、そういう大きな枝はもちろんのこと、かすかな哀愁、切なさ、嫉妬、はかない期待、あきらめ、裏切り、邪心、心変わり、思いやり、のびやかな安心や充実感まで。あらゆる感情が、繊細なレベルにおける濃淡をもって私の心一面に広がったのです。
それは良い感情だ、悪い感情だという解釈のない、すべて味わいのある特別な体験として、私の中に大切にしまわれている。そう思うと、心が豊潤な豊かさで満たされました。
そういう意味で、転居の多い幼少時代、人間味を表現できる仕事、独り身、不倫、その彼の死、そしてこれからという時の自分の死。それらすべてが、味わい深い感情体験をするための、1つ1つの出来事だったのだなと思うと、とても納得したのです。ドラマチックで心揺さぶられることも多く、その中で私自身が成熟していったように思います。
何より、私は楽しんでいましたね、いろんなことを。食べることも、おしゃれも、仕事も、友人関係も、まして男性関係も(笑)。ほどよく遊んでいたので、「もっと楽しみたかったのに!」という欲深さはあったと思います。でもそれは大切なことで、私の場合は修行のために地上に行ったわけではなかったので、酸いも甘いも含めて人生を楽しむことが、私の魂に叶ったことだったのではないかと思うのです。
(改まってラジオ風)以上が、私からの死後報告です。天界の一歩手前からお送りしました。こうしてお声がけいただき、まとめて話すことで、総合的な人生回顧をさせてもらいました。天界に行くアシストをしてもらったのでしょうね。ありがとうございました』
2.品格を失った日本人
2021年1月23日
「昭和の日本人であった向田邦子さんから見て、その昭和の日本人と、平成・令和になった日本人が、どのように変わったと思われるかを語っていただけますでしょうか」
『正直に言って、品がなくなったというのが、一番の印象です。品というのは、自分の中に神につながる部分があるという魂の自覚があってこそ、醸し出される雰囲気なのでしょうね。美智子さまを例にあげればわかりやすいかもしれませんが、その佇まいに品があり、内的な美しさや輝きが顔にも出てくる。女性に限らず、かつての古き良き日本人は、品のある顔をしていました。
人間としてのしょうもなさは、時代に関わらず、誰にでもあると思うのです。しかしその自分をどこまで律せるかという面においては、こらえ性がなくなっているように感じます。かつてはいろんな感情があろうとも、それを自分の中で受け止める胆力のようなものがあったように思いますが、それがなくなってタガが外れているということなのでしょう。それに伴い、良心や節度もなくなっているように思います。
そして最後は、共感性が圧倒的に欠如しているように思います。昔は不倫をするにしても、する方も心が痛み、その辛苦を背負う覚悟もありましたし、そのどうしようもない自分との葛藤があってのことでした。今は、相手の気持ちは考えもせず、邪悪な行動をするにしても、葛藤なくそれをする方が増えているということが、異様な光景に感じます。
品がない、こらえ性がない、共感性がない、葛藤がない。ちょっと言葉は強いかもしれませんが、これでは<野蛮人に朽ちた>と思うのは、私だけでしょうか。
神の国・日本というのは、清濁合わせもったいろんな感情的豊かさと繊細さの中で、それでも最終的に自分を律することができる民族でした。そして、もしそうできなかったとしたら、それを悔やみ、恥じる気持ちは持っている民族でした。
八百万の神の1人が自分であり、それに恥じない生き方をしたいという精神的土壌があったということです。神と自然が日常の中にあったことが大きかったと思いますが、その古き良き時代を知っている私からすれば、今の日本人は心痛む荒みようです。
「恥ずかしくないのでしょうか?」と私は問いかけたくなりますが、しかしその<恥じる気持ちを失った>ということが、取り返しのつかない状態にまでなっているという証なのだと思いますね。
刷新してもらえるのなら嬉しく、喜んでと思いますし、そうでなければ、日本の魂が泣きます』
3.<察し合いの日本人>に関して
2021年2月8日
「今、<魂の対話>において話題になっている、<察し合いの日本人>に関して、何かコメントをいただけますでしょうか」
『私たちの世代までは、相手の気持ちを察するということは、当然のようにしていました。それは<相手の立場に立って考えられる>ということが大前提でした。現代の方々はそれができないようで、<自分中心>であり、本当の意味で他者が存在していないかのように、自分勝手に、都合よく生きておられますので、<相手の立場に立って>という発想自体もなくなっているようです。
しかしそれにも関わらず、相手の気持ちを察しているとは思っておられるようですが、それは自分の歪んだ目から見た解釈に過ぎません。そうなったのは、確かにコミュニティの欠如のためで、健全な多様性の中で育つと、人と人との中でもまれ、固着化した観念ができにくいようですし、また親の目のないところで子供たちは自由に育ち、親の観念だけを刷り込まれるということもありませんでした。
ですので、自分の観念が極端には偏らず、いろんな人の気持ちに共感できる感受性を十全に開ける余裕があり、相手のこともよく見ていましたし、まさか自分の感じ方が絶対に正しいとも思っていませんので、思い込みで決めつけたりはせず、何らかの方法でそれとなく確かめることもしていました。手紙のやり取り1つをとっても、どう書こうか、相手の受け取り方も十分考えた上で書き、そして時間をかけてそれを反芻したものでした。
そのような豊かなコミュニケーションの土壌がある上で「相手の気持ちを察すること」は、相手を思うがゆえの配慮であったのです。しかし今の日本人の察し方というのは、自己保身のためや、「自分は相手のことが分かる」という傲慢さを含んだ動機でなされているのではないでしょうか』
4.男女関係の在り方の変化
2021年2月9日
「当時の男女関係の在り方と、今の在り方とはだいぶ違ってきているようにも思いますが、何か思うところがありましたら、どうかよろしくお願いします」
『男女関係は、自分の心の問題が反映しやすい相手だと思います。表層の社会的関係だけであれば、距離感もありますから感情的になることも少ないでしょうが、親密な間柄になり日常を共にすれば、気も緩み、自分の本性が顕わになるからです。
当時の私たちは、それを分かった上で(つまりは幻想を持たずに)何がしかの問題は起こるものとして心していて、それをいかに受け止め、お互いに乗り越えていき、相手から学ぶかということを、一応は前提としてわきまえている所がありました。
そのためか、相手に対してあらぬ期待を持ちすぎず、理想をも追いかけず、ほどよくケンカをし、ほどよく仲直りをして、お互いに思いやることもできるという、最低限の人間的成熟度があったように思うのです。本来の察する力というのは、そのような土台があった上での(どちらかといえば高度な前頭前野の統合性を使う)能力だったということです。
しかし、今の男女の在り方からは、そのような深みは感じられません。表層的な付き合い方になり、自分のアクセサリーのように相手を選んだり、性欲のはけ口であったり、はたまた誰かそばにいてほしいだけであったりと、とっかえひっかえが当たり前になっているように見受けられます。
逆に夫婦になってしまえば、お互いの問題が表面化しているにも関わらず、現代の方々は葛藤ができないので、都合よくとらえてその認識すら避ける、もしくは逆にイヤだと思ったら簡単に別れるなどは、よくある話になっているのではないでしょうか。
昔も今も、男女関係に問題はつきものですが、葛藤ができないというのは、その関係性からもはや学べなくなっている、ということのように思います』
5.コミュニケーションの在り方の違い
「また、当時の手紙のやり取りと、今のスマホによるコミュニケーション、また私たちが行っているMLでの<魂の対話>など(注1)、何かご感想などありましたらお願いいたします」
『当時の手紙のやり取りは、まずは相手を気遣い、自分の状況を伝え、ユーモアを添え、受け取りやすさも考えた上で、つまりみなさんの言葉でいう第1~3層のバランスの上で楽しんでやり取りをしていました。もちろん、今のように携帯やメールがないため、要件を伝える手紙も多くありましたが、それでもそれなりに相手への心遣いは、一文ににじみ出るものであったように思います。
相手の真意を読み取る感受性も開いていたので、その一文から読み取る情報量というのも、とても多かったように思います。そこからいろいろ察せられた、ということです。それは、言葉に響きがあった、ということなのかもしれません。
ところが、今のスマホコミュニケーションは、一文の情報量というのはほとんどなく、例え同じことを書いていたとしても、薄っぺらく感じ、言葉にまったく響きがないように感じられます。それは脳の表層的なところだけで適当に書いている、反射的な反応思考にすぎないからなのでしょう。
一方、みなさんが行っているML対話のメールというのは、その両方の要素が感じられます。質問や話題自体が、心の深い層に触れるものですので、手書きではなく機械経由とはいえ、その方の状態が文章にとても分かりやすく出るものだと思います。
つまり、魂に響く言葉を書いているか、表層的なところで書いているかが一目瞭然だということです。魂にまで意識が届いている方の言葉は深い響きがあり、それが手紙でもメールでも伝わるということです。
ちなみに、こうした文章による言葉のやり取りができるのは、3次元だけの特徴のようですよ。そんな中で、(質問という)言葉の一撃で核心をズバッと指摘される時というのは、「気持ちいい~!」と思って私たちは見ています』
注1.<魂の対話>
サラ企画において一泊二日で行ってきた対話で、そこで一応気心が知れた時点では、MLでの対話も重ねており、それが4500回にも及んでいる。