中野真作×三上直子対談 第3回「神をめぐっての対話」
◎<全知全能の神>から<無知の知の神>へ
三上 ここで、中野さんの神についてのお考えをお聞きしたいのですが、私はある時点まではスピリチュアリズムで言われていたように、<全知全能の神>がいて、その神がこの現象界を動かしている。そして、<魂の向上進化>というのは、その神に少しずつ近づいていくことだろうと思っていました。でも、蓮さんは自分を<全知全能の神>と思っていたんですね(笑)。
中野 蓮さんに限らず、みんなそうでしょう?
三上 えっ、そうなんですか?! 非二元の方々は、みなさんそのように思っていらっしゃるのでしょうか?
中野 他の方がどう思っているのかはわからないですが、「今の自分はまだ向上進化が足りなくて、向上進化すれば全知全能の神になれる」という考え方そのものが、今の自分を否定していることで、そう考えることが苦しみを生むのだから、向上進化の視点も3次元では必要な時もあるけれど、同時に、最初から誰もが全知全能の神そのものなんだ、という視点も忘れないようにしないといけないと思います。
三上 「全知全能の神そのもの」というのと、「全知全能の神の分身」というのとは違うように思うのですが、非二元では「全知全能の神そのもの」ということなんでしょうか?
中野 「神そのもの」とまでは言わないまでも、「分身」という言葉を使うと神と自分が別もののように感じられないでしょうか?
三上 私の場合は、あまり別ものとは感じていないんですが、いずれにしろ神と自分を別ものと考えないという意味では、非二元もスピリチュアリズムも同じと考えていいんですね。
中野 まあ、そうでしょうね。
三上 でも、私たちはある時点から、その大元の神を<全知全能の神>ではなく<無知の知の神>だと考えるようになったんです。それはもう、劇的な転換でしたね。
なぜ大元の神が<無知の知の神>なのかと言うと、全知全能の神だったらもうこの世界を創る必要はないじゃないですか? すでに知っているものを、またそのまま創ってもただ退屈なだけで、面白くない…。
だから、「自分とは何か」を知るために、いろいろな分身を作り、今や80億人にもなって、その一人ずつから「こういう自分もいるのね」と学んでいる。それが<神のリーラ>で、「そうやって神はこの世界で遊んでいます」というストーリーが、天と対話する中で徐々に明らかになったんです。
中野 遊んだ、っていうのはいいですね(笑)
◎<神の愛>とは
三上 ところで、中野さんは<神の愛>って何だと思われますか?
中野 神の愛…。
三上 特に最近のスピリチュアルな方々は、愛を連呼しているじゃないですか(笑)?「では、愛とは何だと思われますか?」と、一時期よく聞いていたのですが、そうするとみなさん「ウッ」ってつまってしまうようで(笑)。中野さんにとって、愛とは…?
中野 「このままでいい」という感覚ですかね。二つに分かれていない感覚。つまり頭でいいとか悪いとかを考えない視点。
三上 このままでいい…。私は「ありのままを見て、受け入れるのが愛だ」と思ってきたんですが、それと同じような意味でしょうか?
中野 同じです。いつでも適切な状態にある、という感覚。
三上 でも、「適切な」という言葉も評価を伴いますよね。私は、先程の<無知の知の神>の視点に立てば、「これも私ね、あれも私ね」ということで、全部を自分の分身として批判せずに「ありのままを見て、受け入れている」、それが神の究極の愛だと思うんですが。
中野 それはそうですね。
◎<神の叡智>とは
三上 では、ついでに<神の叡智>って何だと思われますか?
中野 叡智と愛は違う? 私は同じものだと思っていますけど。
三上 「愛も叡智も同じ」というのは、なかなか興味深いですが、具体的にはどういうことでしょうか?
中野 分離していない。あらゆる思考や判断を外して、ありのままを見るということ。それを(愛と叡智として)言葉は違うけれど、同じことを表現していると、私は思っているんです。
三上 今一つわからなかったんですが、どなたか通訳してもらえますか?
蓮 ありのままを見ること自体が叡智だ、ということですね?
中野 そうです。
三上 私はありのままを見るというのと、そのありのままを受け止めることは、ちょっと違うと思うのですが。
中野 そうですか?
三上 見る、だけ?
中野 見ている時には受け止めていると思いますけど。そこに思考の判断が入っていないということだから。
三上 ここはすごく大事なところのような気がするので、私はちゃんとお聞きしたいと思うんですね。普通の対話では、けっこうみなさん、漠然と言ったままで終わったり、聞いている側も曖昧な理解のまま、それ以上聞かない。でも、ここで大事にしてきたのは、「自分の観念で、相手の言ったことをわかった気にならない」ということなんです。
と言うのは、相手が言ったことと、自分が理解したつもりでいることは、ズレているかもしれないじゃないですか。だから大事なことほど、より正確に理解するために質問するんですが、この日本では質問=批判と思われて、敬遠されてしまうことが多いですよね(笑)。
中野 確かにそうですね。
三上 で、今の話はすごく大事なところなので、まずは私たちが<天地の対話>で理解したことをお伝えすると、<無知の知の神>の愛とは、自分の分身の「ありのままを見て、受け入れること」で、神の叡智というのは、「そこから学ぶこと」だと思っているんですが、いかがでしょうか?
中野 なるほど。
◎<正見>の難しさ
三上 私たちがしてきた<魂の対話>というのは、今まで1泊2日のものを260回ほど、それに続くメールでのやり取りは1万7000通を超えているんですね。しかも私たちのメールは半端ではなく、本文に書ききれない場合は添付ファイルまで付くという、マニアックなものなんです(笑)。
でも、それだけやり取りをしてつくづく思うのは、まず自分や他者を「ありのままに見る」というのは、いかに難しいかということなんですね。しかも、そうやってありのままを見た上で、批判せずにそのまま受け止めるのは、それ以上に難しい。だから、自分や相手のありのままを見たら受け止められなくなるから、まずはありのままを見ないようにしている人が、けっこう多いんですよね。
中野 そうですね、難しいですね。
三上 たぶんブッダが八正道で<正見>と言っていたのは、まさにこの「ありのままを見る」ということだったと思うんですが、私たちも<魂の対話>では、ひたすら「ありのままを見て、受け入れて、流す」というのを行ってきました。それは、まさに非二元でも言われていることですよね。
でもある時から、それに<学ぶ>も加わったんです。ただ単に流すだけではなく、「体験から何を学ぶか」ということが、叡智を深めていくためには、とても大事なことだと思っています。
中野 非二元で言うならば、体験から学ぶべきことは、自分の何を否定し、自分の内側のどの部分で分離を作っているか、ということだと思います。その否定し分離している自分の一部の存在を認めていくこと、つまり自分と世界のありのままを認めていくことで、すべてが神であることを思い出します。それこそが体験からの学びです。
三上 何を学ぶかは、基本的に人それぞれだとは思いますが、中野さんがおっしゃったことは、私たちが<大元の神>に戻っていくために、自分と他者を「ありのままに見て、受け入れて、学ぶ」ということを行ってきたのと似ていますね。
◎天と地のキャッチボールはあるか
三上 ところで、この<体験から学ぶ>ということこそが、人間の特性なのではないでしょうか? でもそれが可能なのは、意識の流れが神から人へだけでなく、人から神へという二方向の流れがあると思うんですが、非二元論の方々は神からの一方向の流れしか考えていない、ということですよね。
中野 はい、そうです。
三上 私たちも最初はその一方向でしか考えていなかったんですが、神に向かうか神に反するかの選択の自由を与えて、その結果を楽しみながら見ているのが<神のリーラ>だ、ということだったんですね。
それからすると最初に言ったように。ラメッシさんの本などはとても退屈に感じてしまうわけです。「聖人であろうが犯罪者であろうが、それはすべて神がしていることだから、私の責任も選択も何もない」というのは、ある意味、お気楽で無責任、しかもつまらない感じがするんですよね。きっと非二元論に対して、そう感じている人は多いと思うんですが。
中野 非二元の真実を思い出すということは、つまらないこと、退屈なこととはまったく違うのですよ。自分個人がやっていると思っているときには、人の目が気になったり、これでいいのだろうかと思ったりして、思考の判断が入ってしまい、自分を十分に生きることができないのです。すべて神がやっている、それをやっている私がいるわけではないとわかってくると、本当の意味で自分の人生を生きているという充実感が出てきます。
三上 それは、私が目指してきた<則天去私>という生き方にも、通じるところがあるような気がしますね。自分のつたない頭で考えて、目標を立ててそれに向かって邁進するよりも、天に委ねてその流れに沿って生きるようになれば、より自然かつダイナミックな、充実した毎日を送れるようになる、と私も感じています。
中野 そういう意味では、本来のスピリチュアリズムと非二元論とは、深いところでは共通しているような気がしますね。