<天地の対話> 渋沢栄一さん
1.<お互い様精神>で支えられていた日本
2021年2月28日
「渋沢栄一さんに、<経済の面>から今の日本や世界の状態をどのようにご覧になっているか、お聞きしてみてください」
※渋沢栄一さん
『正直なところ、ため息しかありません。人類が「神に向かうか、それとも神から離れた選択を行うか」ということは、あらゆる分野において言えることですが、<経済>というのはその中でとりわけ大きな柱でした。
私たちが生きた幕末から昭和にかけての激動の時期は、西洋の<資本主義経済>が流れ込んできた時でもあり、その<経済>をどのような<動機>で発展させていくかは、その時の日本にとって、まさに岐路にあったといえることでしょう。つまり、「神に向かうか、神にそむくか」を、もう少し経済寄りの言葉でいえば「利他と公益と博愛のためにお金を回すか、それとも自分が儲けるためか」のどちらに流れるのか、それが試されていたということです。
幕末あたりは、まだ武士の精神や日本人としての品格を持つ方々、そして国のために、民のためにという志の高い方も多くいた時代でしたので、<皆で支え合う>というのはごく自然に培われていた精神でした。もちろん、当時もずる賢い両替商や悪代官もいましたが、一般庶民は基本的には心根の善良な、助け合う共同体の中で、経済というのはその地域ごとに循環していたのでした。
小さな規模での経済循環の場合、道徳に反せずにお金を得たり使ったりすることで、また自分にめぐってくるものなのだという循環は、見えやすいものでした。例えば、近所の人が困っている時に助ければ、今度は自分が助けられるという<お互い様精神>は、まさに「情けは人のためならず(=結局は巡り巡って自分に返ってくる)」ということを、体験からごく自然に学んでいたということです。
その前提には、人の気持ちが分かるということが、ベースにありました。困っている人を放ってはおけない利他(人のため)という気持ちがあるために、自分が得をしたい気持ちはあるものの、そこで葛藤して<人のため>の方を選べる人が多かったということです。それはそのまま、神に向かう選択となっていたということです。
2.資本主義の導入:どちらに向かうか
ところが資本主義というのは、お金を大きな規模でまとめて扱い、それを運用するという方法ですので、(それを日本に導入するにあたり)小さな規模では見えていた因果関係が見えにくくなることが危惧されました。そうは言ってもそれ以上に、貧しさを解消して豊かにしていくことは、みなの幸せにつながることでもあり、また鎖国をこじあけられた日本が世界の経済大国に対抗して国を守るためにも、日本でも資本主義を進めていくことは避けられない道だと私は思いました。
しかしその資本主義の中で、金儲けだけに走っては、いずれはそのシステム自体も破綻することが予想されるため、私は「論語(道徳)とソロバン(利益)」の両立を目指しました。そこで「まずはそれをする<動機>が、本当に人のためなのか、自然法則に反しないか、公共的か、善に向かうものかということを考え、ゆるぎなくそうだと言えれば、それで利益を得ればよい。そしてその得た利益は、また人のためにと還元して使っていくことこそ、自分の道徳心(天に恥じない生き方をしようという心)にかなったものである」と、人々に説いていました。そして具体的に、私の場合は社会福祉や慈善事業に利益を投資していきましたが、それは今の言葉でいう<経済における友愛>を実践していたということになるのでしょう。
経済とは、共同で集めたお金を困っている人の救済にあてることが本義であり、道徳心と良心(=魂の願い)をしっかりと<動機>としてもった上で取り扱えば、全体に豊かさをもたらすための良い道具にもできたはずです。
3.利益至上主義
しかし今では、その経済を牽引するお金は、もはや道具ではなく目的と化し、動機自体が「儲けるため、利益を得るため」にすり替わってしまいました。利益追求は個人的な欲望であり、そのためには道徳心や良心で(=魂で)感じる正しさは、踏みにじらなければなりません。
そうなると人は、建前としては立派なことをいい、理想を語りながらも、自分の良心を鈍感にしていき、自分への嘘や不正直さを、あらゆるごまかしによって塗り固めていくものです。そしてそういう良心さえも失って何も感じなくなったところで、「利益至上主義」は当然のごとく闊歩するようになりました。
今の資本主義社会は表層的には<人のため、社会のため>という美しい理念を語りますが、内実では企業利益のためにすぎないことが多いのではないでしょうか。そして個人にとってもその<利益主義>は、自己満足・自己顕示・自己保身・自己欺瞞の中で、究極的には「人をうまくだまして、自分さえ利益を得られればそれでいい」という地に堕ちた動機さえもって、その場限りの欲望をアストラル界と結託して満たす温床になっているといえるのではないでしょうか。
もはやお金が<人のための道具>ではなく、自分の豊かな生活を保障するものでしかなくなれば、お金のために働くという目的は、お金への依存をますます高めて、ますます執着していくことになるのです。
4.観念に過ぎないお金
しかし、お金というのは、人間が生み出した観念に過ぎません。ただの紙を「これにはこれだけの価値がある」とみなで観念的に信じることで成り立っています。もっといえば、銀行を介して資本を合本するというやり方は、その預金をまた人に貸して数字だけを動かすために、本来は銀行にもお金がないという、架空の観念での信用取引がなされています。
経済が右肩上がりに伸びている時は、その信用力は絶大です。ところがその信用がゆらいで、みながそこから手を引くことになれば、一気に金融恐慌が起こり、システム自体が崩壊するということになります。お金という観念を信じ、ないものに依存すれば、結局その基盤ごと崩れてしまうというのは、今や必ず起こるといわれている自然災害と同じくらいに起こる可能性は高いのではないでしょうか。
経済というのは、それを正しく人のために使うシステムとして機能していなければ、崩壊するのです。それは個人や企業の欲望や利益追求の<因果応報の結果>として、起こるべくして起こるからです。
私たち人類は、残念ながら経済を正しい動機では使えませんでした。もはや<経済優先>のために、環境・人権・子供の成長をはじめ、あらゆることが歪められてしまったといえます。戦争でさえも、もはや経済のためなのですから、恐ろしい世界です。
それに全世界の人々も無自覚に加担しています。自分の欲求を優先していて、それはちょっとした選択に過ぎなかったとしても、今や全世界のほとんどの人が良心よりも経済優先で動いているのですから、もはやこのままではこの地球に未来はありません。それが冒頭で述べた「ため息しかない」という理由です』