人生回顧 アイルトン・セナ:最後の一瞬に何が起きていたか

アイルトン・セナ・ダ・シルバ(1960年3月21日 – 1994年5月1日):ブラジルのレーシングドライバー。F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。1988年日本グランプリで「神を見た」、モナコグランプリで、「まるで自分が意識してマシンをドライブしていないことに気付きギクッとした」などの発言もあり、「音速の貴公子」とも呼ばれていた。1994年のサンマリノグランプリでレース中に壁に激突し死去。今年は死後30年に当たる。天からの指示もあって、以下の対話が始まる。

 

 

 

2024年59

※セナさんは死後ずっと眠っていた様子。暗い中にずっといたために、目を開けるとまぶしがっている。

 

セナ 『うわっ、なんかまぶしい。何? あ~、頭がガンガンする。まだ寝たりないような朦朧とした気分だよ』

 

「死んだことは覚えていますか?」

 

セナ 『そういうことか。死んだんだね?』

 

1994年にレース事故で、亡くなったようです」(※私もどのように亡くなったのか把握するため、一緒にYoutubeでセナの事故映像を見る)

 

セナ 『なるほど、客観的に見るとこう見えてたんだね。自分の中ではコースを外れた最初までは記憶があって、その時は急に情景がスローになっていったんだけど、そこで急に視界が曇るというのか、塞がれたようになって、気を失ったんだと思うんだ。それから記憶が一切なく、ずっと眠っていたようになっていて、今目が覚めたという感じ。何年経ってる?』

 

「ちょっと待ってくださいね。(計算機で計算して)30年です」

 

セナ 『フフッ()。計算苦手なの?』

 

「そうなんです。キリがよい数字なのに、それさえ計算できないのかという感じですよね()。でも30年てスゴイですね」

 

セナ 『そう、それ、思った。30年眠ってることなんてあるの?』

 

「ちょっとよくわからないですけど、あ、指導霊の方が先ほど浮かんだんですが、合っていますかね?」

 

本田 宗一郎 『いや、やはり私じゃないと!ここは私が!なんて、勢いいさんで来てしまいました。セナさんは今、アストラル界の最下層にいます。自殺なのか、憑依によるものなのか、微妙なところですが、それでも意識をしていない状態が続いていたため、そうなると他の方は探せないんですよね。もし幽界にいるとしたら、真っ暗闇じゃないですか。でも目を開けたらまぶしかったということは、アストラル界で今目覚めた、ということなんです』

 

セナ 『知らない用語ばかりだけど、でも本田さんが言うんだったら信頼できるし、何となく伝わってくるものがある。つまりは死に方が独特だったから、普通に死後コースに乗らなくって、眠ってたってことなんだね?』

 

本田 『そう。けっこう稀なケースかもしれませんが、でも今は、死後のいろんなバリエーションが地上に開示されているところなんですね。これまでは憑依されて幽界にいる霊能者ばかりの人生回顧だったけれど、ごく最近、日本の坂本龍一さんというアーティストが人生回顧をされて、その方は憑依なしのノーマルタイプだった。次はセナのようなケースも、一つ事例として公開しようじゃないか、という天界の意図があるようです』

 

セナ 『人生回顧ね。地上時代を振り返るってことね。で、この人(霊媒)は生きてるけど、ここに来られるってわけ? それも特殊だけど()

 

「どうも地上から足が浮いていて、あの世の人とばかり話している人生でした()。でもそれが私の特性で、霊媒としてこうして人生回顧のお手伝いをして、人類の学びにさせてもらっています。審神者もいますし、天界の方々も一緒に行っているプロジェクトなんです」

 

セナ 『僕は車の世界のことしか知らないけど、そういうことしている人もいるんだね。面白い()

 

「指導霊もいますし、セナさんの人生回顧を対話しながら進めていくことで、皆で一緒に学ばせてもらえませんか?」

 

セナ 『それはいいよ。取り立てて隠すこともないけど、ちゃんと思い出せるかわからないから、いろいろ聞いてもらえる方が助かるし』

 

「では、ここまでを審神者に送りますね」

 

セナ 『ボスってことだね。OK』

 

 

2024年59

セナ 『あぁ、まだ眠い感じがする。目をつぶったらまた真っ暗闇になって、目を開けたら光のあるまぶしい世界になるね。普通もそうなのかな。でもそれがなんだか極端な感じだよ』

 

「意識をしたら、明るいアストラル界が見えるということでしょうか?」

 

セナ 『そうだね。なんか不思議な感じで、明晰に意識してれば明るくなって、少し無意識になると薄暗くなってる。自分の意識度合いで、周りの明るさが調光されているみたいなんだよ。でもって、今はけっこう揺らいでるから、明るくなったり暗くなったりを、2秒間隔くらいでアップダウンしている、という感じかな』

 

本田 『それは、死の瞬間のことを意識化していないから、幽界との引き合いが起こっているんでしょうね。明るい時は自分が意識をしていて、暗い時は幽界霊が幽界に引っ張っていて、その狭間で揺れているという感じなんです』

 

セナ 『あぁ、確かに行ったり来たりしてる』

 

本田 『私たちも、目覚めた時点でアストラル界に来られるのかな、と思っていましたが、そうであっても人生回顧をしない限りは、まだ揺れるんですね。まずはそれがわかっただけでも御の字です。

 

今、幽界とアストラル界にどのように行くパターンがあるのかが、いろいろ検証されていて、セナさんは特殊な例ではあるけれど、実は一般的にも共通するものを持っているので、それを周知するためのモデルとして選ばれたんです。

 

死後は幽界に引っ張られて、そこで30年も昏睡状態でしたが、それは今この時にこうして公開で人生回顧をするためだったかもしれませんよ。なぜなら、普通だったらすぐに私たちが助けに行ったはずなんです。もともと天界にまで意識が届く方なんだから。でも「時期が来るまでちょっと待っててね~」ということで、タイミングを見ての今だった、ということなんです』

 

セナ 『それで30年も、なんですね。特に苦しくもなく、ただ寝てただけだから全然いいんですが…。なんだか眠り姫の気分で、お花がいっぱいの棺桶の中で目を覚ましたら、王子の代わりに本田さんがいた、という感じです()。でも指導霊にはピッタリで、僕の気持ちがよく分かる人だろうと思ってますよ』

 

本田 『そうですよね。気持ちはよ~くわかるような気がします。似てますしね、私たち。理想が高いところとか、情熱が過激なところとか、一念や集中力の強さとか、世界のトップを取ろうとするところか…』

 

セナ 『トップ、それ!』

 

本田 『実は、セナさんには謝らないといけないな、って思ってたんですよ。私が91年に亡くなって、その後92年にはHONDAがF1へのエンジン供給を停止したじゃないですか。どうも会社としていろいろ資金面でも回らなくなったようで、もし私がいたら「苦しくてもセナのためにエンジンを提供しつづけろ」と言ったと思うんですがね。経営者が変わると、会社の方針ってガラッと変わってしまうところがあるんですよ』

 

セナ 『確かにそれが大きな引き金だったんですよね。僕のレーサーとしての情熱が、何だかそこでくじかれたような感じでした』

 

本田 『その辺をもう少し詳しく聞かせてもらえませんか?』

 

セナ 『いや、大きな目で見れば、それが必然だったのかもしれないですよ。だけど、その時の僕にとっては、車って自分の体の一部と同じくらいの感覚で、一心同体のようにHONDAエンジンはありましたからね。それが急になくなって、少し性能の落ちたものに変わるわけでしょう? ショックという言葉では言い表せない欠落感がありました。

あと、やはりHONDAの人たちは、熱い人が多かったですよ。技術に関しても、もっと上を目指そうという探究心と、真面目さと、誠実さとを併せ持っていた。それは日本人全般としての傾向だったかもしれませんね。

 

戦後復興した中で、突如抜きんでてきた日本人のそのエネルギーって、やっぱりすごかったですから。エンジンの良さとか性能だけじゃない、その人たちのエネルギーが相合わさって、その頃の僕の好成績につながっていたと思います。

 

HONDAの撤退は、そういう人間関係も含めてガラッと変わるわけで、もちろんプロとして勝つためには、次のチームでもちゃんとやっていこうとしますが、何か物足りなさを感じている、そういうフラストレーションはありましたね』

 

本田 『いやぁ~、おほめいただいてありがとうございます。日本人もまだそういう人がいた時代でしたし、その中でもHONDAは変わり者だったんです。社会で保守的にやっていこうというのではなく、コーナーギリギリを責めて優勝を狙うタイプでしたから、その勢いたるや、というところはありましたよね。そこでお互い共鳴したんだと思います』

 

 

2024年510

「審神者からは、私たちでどんどん人生回顧を続けて…、ということでした」

 

本田 『あなたから質問はないの?』

 

「セナさんがカーレースをやっていた動機について、まずはお伺いしたいです」

 

セナ 『小さい頃にレーシングカートに触れた時から、「これだ!」っていう夢中になれる感覚があったんだ。それ以外はどうでもよく、「これに集中したい!」という奥底から湧き出る楽しさみたいなものがあったんだ。

 

もちろん最初は速く走ることでの爽快感とか、ドライビングテクニックとか、技術がどんどん向上していくことにも心が奪われていたと思う。でも最終的に虜になったのは、レースの最中にある種の瞑想状態のようになるということが起きていったんだよね。<冴える>っていう状態かな。呼吸が非常に深くなって、あらゆる感覚が最大限にまで研ぎ澄まされる。それは五感のすべてがその感度を全開にしているような感覚で、しかもそれに直観力も合わさって、自分の内面で起こっていることや、車の状態などもつぶさにつかめるようになっていった。最初から全部ではなかったんだけど、繰り返すうちにどんどんその感度や把握力があがっていった、という感じなんだ。

 

だからただただ早く走って気持ちいいとか、そういうことじゃない。むしろ走っている間は非常にスローにさえ感じて、一寸先のことも直観で把握できる、ものすごく開けた、先鋭化した意識状態になっているんだ。それがまずもって気持ちいい、というのがあったよね。

 

その中で、神から与えられたそういう自分の資質を最大源に伸ばしていったらどうなるのか、それを突き詰めていく好奇心もあった。ここがもう少し改善の余地があったなと振り返って、自分の精神の保ち方にしろ、どのように何を意識するかにしろ、車のエンジンの回転数や、タイヤが地面を転がるその感触さえも自分の意識の中に入っていたんだ。そういうことの全部を、そのレース中で一気に情報処理をしながら、一瞬の判断をしていく。

 

だけど瞬時の判断というのはいちいち思考しているということではなく、まさに本能的だといってもいいくらいで、それまでの経験値から蓄積されて体で覚えたものが反応することも多くある。研ぎ澄まされた意識の集中と、すべてをゆるりと俯瞰している解放的なくつろぎとの、絶妙なバランスが両立していると、0,01秒単位での今がものすごい密度で進んでいく。それは何にも代えがたいやりがいなんだ。そのように、意識をいかに先鋭化して使うかが、自分の魂の動機だったんだと思うよ』

 

「カーレーサーというのはそういう醍醐味があるんだというのは、今回はじめて知りました。極端な言い方をすれば「スピード狂の人たちが競っているのかな」とさえ思っていたんですが、今回セナさんの記事などを読んでぜんぜん違っていて、もっと神の領域に踏み込むようであり、意識の先鋭化もすごいし、そういう道から自分を知っていくという方法があるんだなと思いました。ところで…、このまま質問を私が続けていいですか? いろいろ浮かんでもまったく未整理で、要点をついているかわかりませんが、この頃好奇心がわいてきて聞きたくなっているんです」

 

本田 『練習のためにもどうぞ。何かあれば私がフォローしますし、私もけっこう感覚派なところもあるんで、二人で伺いましょうか()

 

「ありがとうございます。セナさんは、先ほど<魂の動機>とおっしゃいましたが、私たちはそれを第1層の霊的自我と呼んでいます。第2層が個人的無意識(感情的自我)で、第3層が意識的自我(社会的自我)だとすれば、第2層と第3層の動機はどうだったでしょうか?」

 

セナ 『確かに、人間ていろんな層があるだろうね。自分でも無意識だったことを意識化していくというのは、けっこうやっていたんだ。そうしないと1位にはなれないからね。そういう勝ちにこだわったところ、トップを執拗に目指したところは、第2層にはあったよね。でもそれはいい面と悪い面とがあるんだ。

 

いい面では非常に微細なところまでを突き詰めていく探究心とセットになっているところで、そのようにトップを目指しているからこそ、そこまで先鋭化した意識を保てるところもあったんだ。ゲームとして、ある種それを楽しめている限りは、それがモチベーションをより高め、維持する補助動機にもなってくれた、という感じかな。質の高いものを求め続けることで、向上し続けるという感じ。

 

悪い面では、その魂と両輪で駆動することで、バランスが取れていた向上心が崩れて、もっと人間的な欲望としての「勝ちたい」という、競争心になるというところもある。前者を目指しはするけれど、やはりどうしても元々持っている闘争心や、人と比べての優位性、トップでいる快感、しかもトップ選手であり続けることによる疾走感みたいなものも、自分の中にあったよね。その悪い面が大人しくしている場合もあるし、瞬発的にそっちがヒュッと出る時もあったと思う。やはり「誰よりも早く走る、1番を競う」というのは、それはそれで単純な競争心は出やすいからね。そういう動機で勝ちにこだわっていた面も確かにあったよ。

 

第3層ではどうかというと、それでお金を求める動機が最初に来るってことはまずないよね。もらうものはちゃんと請求するタイプだったけど、かと言ってそれに縛られていたわけではなかった。あくまでも結果。レーサーの中での地位争いや、いろいろめんどうな人間関係もあったけどね。まあチームで協力してやっていくスポーツでもあるから、そういう面での社会性や人との信頼関係の構築などもできるし、わりと率直に何でも言う方だったように思うね。そういう意味で、自分や車の状態の意識化にしろ、人間関係や会社との契約にしろ、現実的状況把握というのは、割と的確に行っていたように思うね。ちょっと動機の話からはそれちゃったけど、そういう中身だったということで、質問の回答としてはいいかな?』

 

「ありがとうございます。ここまで自分ですぐに意識化していただいて、さすがだなと思っています。私たちのように憑依されていた霊能者とは大違いです()

 

本田 『セナさんは、自分を霊能者だと思う?』

 

セナ 『霊能者の定義にもよるけど、わりと自我がちゃんと育っていたタイプだとは思うよ。今日の地上での対話も聞いていたけど、「ある程度まで肉体脳での自我をしっかり鍛えてから、霊体脳で見えない世界に踏み込む方が正当なルートであり、その方が見えない世界に対峙した時に、自分をコントロールできる」ということだったよね。

 

それを聞いていて、僕は最初から霊能者タイプでは全然ないんだけど、でもレースに出たのが10代だったでしょ。そして神を見たのが28歳。その頃から、より意識が開かれた感じがした。いわゆる覚醒がその年齢で起きて、霊体脳をより意識的に使っていくということになったんだと思う。

 

だけど、ユングが言う「人生の後半の40歳から、自我ではなく自己(魂)に比重を置くようにしていきましょう」という意味では、僕はかなり生き急いでいたよね。だいぶ早いんだ()。だから自我において、そこまでコントロール力が万全ではないうちに、早々に神の領域に片足を踏み込んじゃった、というのはあるんだろうね。それが霊能者かと言われれば、ちょっと微妙だけど、覚醒しているという点では天の力を得ているという意味で、肉体脳だけじゃない感覚をもフルに使っていたとは思うよ』

 

 

2024年511

セナ 『レーサーとしての僕は孤独だった。でもそれは一人ぼっちという意味ではない。レースチームの仲間もいるし、家族もいるし、人間関係的には豊かに守られた中にいたと思う。

 

だけど、レース中はやっぱり一人なんだ。でもそれは、「一人ぼっちでさみしい」という孤独ではなく、自分と神しかいないその車内の空間内での、孤高感、圧倒的な一人感と呼べるものだった。その孤高感は、嬉しいとか、喜びとか、そういう普段の感情を通り越したもので、静けさと共にある穏やかな安心感なんだ。それを魂では感じていて、その瞬間を大事に、それを感じたいと思っていた。

 

それは宇宙飛行士とおそらく同じ感覚なんだよ。宇宙の中に一人、地球を見ているような、そんな、人間世界のごちゃごちゃから抜け出した宇宙的静けさ。だからレーサーと宇宙飛行士は、似てるんだ。レーサーは時間を極限まで細分化して意識化していく道、宇宙飛行士は空間を広い視野で見るという道。時間と空間の制約を取り払うには、どちらの方向からでもいけて、そしてそれらはきっと同じところにたどり着くんだ。それが神の領域だった、と僕は思っている。

 

でも、魂の面ではそうであっても、それを人に言ってもまったく理解されないことが多いからね。最初は何でもそのままに言っていたけど、だんだん僕も言わなくなっていったんだ。

 

でも88年くらいからそういう瞬間は増えていったんだよ。それがHONDAのエンジンで走っている期間(198892年)だった。だからそういう僕を後押しするためにHONDAはサポートしてくれてる、という感じはあったね』

 

本田 『確かに、すごく深い絆があって、二人三脚のようなところはあったんでしょうね。そのようにHONDAも使命に適ったことをしていたから、その他の一般車も売れたりして、うまく回っていたように思います』

 

88年の日本グランプリで『神を見た』という時の体験を詳しく聞かせてもらえませんか?」

 

セナ 『鈴鹿が伊勢神宮に近いとか、そういう知識はまったくなかった。日本に対する印象も、それまでは日本人と接して、一部を伺い知るくらいだったからね。でもそこが日本であったというのは、今となっては意味深いことだったかもしれないね。

 

鈴鹿サーキットというのは八の字型をしているんだ。真ん中で上下に交差するポイントがあり、東西に横長い楕円がある。

 

 

その西側にあるスプーンカーブを曲がったところで、目の前の空中に光が見えた。けっこう大きな光で、一瞬で「神だ!」と直観するような衝撃が走った。

 

さっきの先鋭化した意識の中での孤高とは違った、ダイレクトに心に飛び込んできて、感情をもゆさぶるものだった。感動で感涙するというのかな、畏れ多さみたいな気持ちも伴った光だった。ちょっと順番が逆になってしまったけど、さっきの宇宙飛行士の静かな孤独の感覚は、この光を見たあとにやってきたものだったかもしれない。同時にどちらからも近づいているような感じもあったけど、この覚醒があってどんどん宇宙飛行士化していった、ということだと思う。わかるね? これはあくまでも比喩だよ?』

 

「はい、わかります。その頃から、霊体脳をより意識していくようになったということですね?」

 

セナ 『じゃあ、脳での説明でやってみようかな。霊体脳だけじゃなく、幽体脳もあるということだったね?』

 

「セナさんは理解が速いですね。ちょっと聞くと、『あぁ、その分類ね。わかる、わかる』みたいな感じで、もうすでに(私たちが使う用語に関しても)すごく詳しい感じがしています」

 

セナ 『自分が意識していた感覚があって、それをここではこういうネーミングで分類しているんだなと思うから、自分の体験と照らし合わせると、すぐにその構造や全体像がわかるような感じがするんだろうね』

 

本田 『天からの直観を無意識的に得ているのは、科学者だけじゃないんですよね。車の技術者だって、レーシングドライバーだって、同じだと思いました。それをしっかり意識して、向上心をもってやっていれば、何の職業を通してであっても、天とつながるものなんだなと感じます』

 

セナ 『そう。宗教家だけが神に近づく手段じゃないと思うんだよ。僕はレーシングドライバーとして神に近づこうと、ある意味では宗教家より熱心だったと思うし、科学者と同じくらいすべての事実を洗い出して探究していこうというモチベーションもあった。レーサーはその肉体脳と霊体脳の両方の道をぐっと合わせたところで、<一瞬という今>の中に凝縮した体験を自ら得ていくという、そういう職業だったと思うんだ。

 

で、さっきの霊体脳と肉体脳の話に戻せば、鈴鹿の八の字のレースコースで、霊体脳と肉体脳が合致したと思うんだよ。それらが合わさって融合・調和した。ある意味では、0になったし、ある意味ではそれらがぴったり重なった。だからその瞬間に光が見えたように思うね。霊体脳と肉体脳の融合を目指せば、ピタっとはまる瞬間ってあるんだ』

 

 

2024年511

「覚醒して、肉体脳と霊体脳の融合にたどりついたのが、日本だった意味深さは、今となってはどのようなものだと思われるでしょうか?」

 

セナ 『車には、重心というものがあるんだ。それはその車のバランスのよい中心部で、その一点ですべての均衡が取れるような、点がある。それは人間でももちろん同じだろ? ちょうどその人の中心の一点というのがあるじゃない。それは肉体だけの中心というよりは、さっき言ってた霊体も合わせた、総合的な中心点というやつ。そして宇宙もたった一点からはじまったというじゃない? あれが中心だったと僕は思ってる。

 

そういう意味で、じゃあ地球の中心はどこかなと思えば、日本がそうなるような感覚がある。それは、おそらく意識的なことも合わせた中心。鈴鹿サーキットのコースのように、∞という軌道の交差する点を、僕は中心と言っているんだ。だから僕の中心と、車の中心と、地球の中心が∞の軌道を取る中で合わさった、という感じじゃないかな。ちょっと漠然としたイメージ言語で申し訳ないけど、感覚としてはそういう気がするね』

 

「日本は、西洋と東洋を結び、地球の中心でもあるということです。そしてその地球の中心というのは、この世的な表現でいえばブラックホールであり、あの世的な表現では直日と言っています。直日は神とつながる通路で、ブラックホールのエネルギーとしては∞マークの交点としても表現されることがあります」

 

セナ 『面白いね。さっきは空間と時間で宇宙飛行士とレーサーを比較したけど、今度は違う表現にしてみようかな。宇宙飛行士は重力を超える、レーサーは限りなく音速に近づこうと走る。そうやって、人間や地球の制限を突破しようとしていたんだね。ちょっと話が人生回顧からどんどんそれちゃったかな?』

 

「いえ、私たちの人間や神や宇宙の解明と、ものすごく共通するものを感じています。鈴鹿で0ポイントにセナさんが到達されることも、大きな意味あることだったと思いますが、それ以降はどのような心境になったのでしょうか?」

 

セナ 『それがね、よくわからなくなったんだ。それまで神に向かって自我で、つまりは肉体脳を中心にまっしぐらに走っている感じだったんだけど、覚醒してからは直観がどんどんわいてくるから、より無意識にゆだねるようになったんだ。技術経験もそれまでずいぶん蓄積されてきていたし、ある程度感覚的な予測もできるようにはなっていたから、直観に任せて本能的な運転をした方が、意識的に操作できる技量以上の結果が出るということもあった。だから少しずつ無意識にその比重を置くようになっていったんだ。

 

だけど、その無意識って、第2層の幽体脳と第1層の霊体脳がある、ということなんだよね? そこが、僕が引っかかったところだったと思う。やはり自分の勝ちたいという悪い面での欲望もあるからね。それで神とつながった霊体脳というよりも、もっと混沌とした幽体脳での無意識をも拾うようになっていったんだろうね。それで調子の良さがアップダウンするようになっていった』

 

「当時はその自覚はあったのでしょうか?」

 

セナ 『「あれ、おかしいな」と思いはじめてはいたけど、何が起こっているのかまでは、まったく把握はできなかったんだ。でも、自分のコントロールを無意識にゆだねる面がふえていることは自覚していて、それでアウトオブコントロールになるということも結構あった。だからその度に、何とか意識を取り戻していこうとする引き合いの中にあった。

 

それは、肉体脳が幽体脳につながるか霊体脳につながるか、コロコロ動いていたということでもあったかもしれないね。覚醒の時期が早かったから、まだそこまで自我でのコントロールがうまく効かなかった、ということだと思うよ。そうなると、敵対相手に車をぶつけてクラッシュさせたり、それまでの自分だったらしないことまで、ふいにしてしまうこともあった。少しケンカ早くなって、誰かを殴ったりとかね』

 

「幽体脳の無意識で動く場合、そこに憑依霊が乗っかってくるというのが現代の特徴ですが、それはどうだったでしょうか。本人の自我があっても、憑依霊は小脳経由でひっそりとコバンザメのように操作してきて、共に生きてしまう。私なんかは憑依霊に95%乗っ取られていたという衝撃の人生でしたが、その程度は人それぞれで、スティーブ・ジョブズさんなどは6~7割方は憑依霊が操作してビジネスを成功させたということでした」

 

セナ 『ちょっとそこは抵抗があるけど、でも実際にこれだけいろんなことを意識できた自分が、ふと無意識になって普段ならしないことをしているというのは、ちょっと怖いなと思っていたんだ。だからなるべく気を付けるようにはしていて、その直観へゆだねる度合いを調整するようにしてはいたんだけど、でもチラチラと他の意識が入ってくる、という感じは確かにあった。

 

モナコでも無意識に運転していたというのは、その憑依霊が運転していたということかもしれない。「あ、やばい」と思って怖くなってスピードを落としたんだけど、いつもと何かが違うという感覚は確かにあった』

 

本田 『その時、「車を下から誰かが蹴って正気に戻った」というのは、天界霊の助けでしょうね?』

 

セナ 『そうだったんだ…。それで確かに正気に戻ったんだ。あのまま運転してたら、どうなっていたかはわからないね。その時は勝つためには事故をもいとわない、普段以上のものすごい攻めモードになっていたと思う。それが憑依霊だった、ということなんだね。ふむ、ふむ。そんなことあるんだね』

 

「唯物主義の近代になってから、死後の世界を認めない人が死ぬと幽界に行ってしまい、人にとりつく憑依霊が今はわんさと出てきて、しかも脳科学やら経済やらを学んだ<頭のいい憑依霊>たちだから、本人も気づかないうちに小脳(幽体脳)から巧妙に操作されるそうです。その憑依が長くなればなるほど、浸透度合いも上がっていくのだとか」

 

セナ 『あ~、確かに、最初は一瞬だけでも、だんだんその時間が長くなったように思うね。長いといっても、僕の時間感覚はけっこう研ぎ澄まされているから、1秒が3分位になって、という感じだけどね。数時間乗っ取られてる、とかではない()

 

「さすがです()。最終的には何割くらいの憑依だったでしょうか? つまり、幽体脳と霊体脳をどの位の割合で使っていたでしょうか?」

 

セナ 『たぶんね、幽体脳の全部が憑依霊でもないんだよね。僕の場合はいい面での向上心もあったじゃない。それにドライバーというのは、小脳の無意識判断にゆだねて、一瞬の肉体的反応をするというのは、よく使うルートだからね。

 

だから霊能者のように、例えばジョブズさんのように、6割憑依霊でした、ってわけでもないんだ。それよりはずいぶん少なく、2割くらいのちょっかいが、たまに入ってくるくらいだったと思う。魔が差した、という程度の感じかな。それでも憑依霊と接触していたことは確かで、悪い面での勝ちたいって気持ちは常にやっぱりあるから、その気持ちでつながってたんだろうね。

 

ただ、ドライビングテクニックとしては、僕が第1~3層でバッチリつながった方がはるかに上手いし、意識状態も鮮明になる。だから僕自身が憑依霊を頼りたいなんて、ちっとも思ってはなくて、むしろその時に魔が差してそうなってしまうことに、たいそう迷惑な気持ちを持っていた、という状態だったよ。

 

だけど無意識ってどうしてもあるからね、それでヒュッと入り込まれていた、ということはあるんだろうね。それがまさか憑依霊なんて、思ってもいなかったけどね。僕は、自分の小脳に蓄積されているドライビング技術や運動感覚にも自信があったから、それに無意識にゆだねることは、ある意味ドライバーとしては正しいことでもあるんだ。


だけど、その無意識が幽体脳とつながったものの場合は、憑依霊もからんでくる危険性があるというのは、まったく思ってもみないことだった、という感じかな』

 

 

2024年512

「セナさん、今朝は私の指導霊の晶子さんと対話していて、「結果にこだわる目標設定思考の観念がある」と私は言われたのですが、セナさんはいかがでしょうか?」

 

セナ 『指導霊って、穏やかなタイプばかりじゃないんだね。本田さんなんかは、「いいね、いいね!」と励まし系なんだけど、晶子さんは「お前も聞いとけよ!」くらいのノリでこっちにも言ってくるから、びっくりした()

 

「霊能者って傲慢になりやすく、しかも憑依霊もついているので、それを薙ぎ払う強さが必要なため、晶子さんのような荒魂の方についてもらっています。セナさんはまったく抵抗しないし、すぐに理解して、自分で人生回顧を進めていかれるので、そういう厳しさよりも、本田さんのように受け止めてくれる方が合っているんでしょうね」

 

セナ 『でもね、ビシッとその目標設定型を指摘されるのは、必要だったかもしれないね。確かに肉体脳の自我では「結果を出す」ということが当然の観念になっていて、「1位じゃなければ意味がない」というこだわりは強かったんだ。それがこの前も言ったように、質の高さを求めるためのモチベーションである限りは良かったけど、どこか執拗に結果を求める自分もいたんだよね。

 

それは社会的な観念だったかもしれない。契約にしろ、他者評価にしろ、結果で判断される社会でしょ。だからそのプロセスにおいて、いくら自分がものすごくよい体験だったと思っても、結果が伴わなければ意味がないという、結果優先の目標設定型の観念って、すごく大きかったよね。確かにうまく第1~3層がつながっている時は、結果も良かったんだ。だけどそれを逆にして、結果を求めれば第1~3層のドライビングができる、という訳でもない。

 

それがユングのいう自我から自己への移行時期が、僕の場合は早すぎたということがあって、そのズレが問題だったんだろうね。つまり、霊的覚醒後というのは、天が与える現実に自我で素直に従っていくことを、君たちは<則天去私>と言っているでしょう? 僕がもし40歳位までじっくり肉体脳の自我を鍛えてから、その自我でもって天に則ることを選んでいったとしたら、確かにバランスよくやっていけたかもしれない。目標設定型から則天去私への移行って、けっこう大きな転換だと思うんだ。

 

だけど、その自我の準備が出来る前に霊的覚醒をしているので、霊体脳や幽体脳の無意識にかなり心を開きながらも、肉体脳の目標設定思考だけはそのままだった、ということなんだ。

 

そういう第3層の目標設定思考と、第2層の勝ちたいというエゴの欲求がある中で、年齢的に早かったという覚醒後には、憑依霊が交じってくるようになった、というのが僕の人生だったんだろうね。それに自分でも戸惑いはあったけれど、それでも勝ち続けている間は、それはそれで大きな問題としては感じなかった。何はともあれ、結果が出ていればよしと思うし、調子がいい時はたぶん、第1~3層の自分がちゃんとつながっているから、そんなに憑依霊にもやられることも少なくて済んだんだ。ほんとにたまに魔が差す程度で。

 

でも、HONDAが1992年に撤退したら、その歯車のバランスが変わった。結果が出なくなるから、自分の中に焦りも生まれて、それで憑依霊も入りやすくなったんだろうね。車のせいももちろんあるけど、自分のメンタル面でもバランスが崩れてしまったんだ。

 

それで、1994年にウィリアムズに移籍して、環境自体を変えてリフレッシュして臨もうと思った。でも、所属チームの変更によってそれが好転することもなく、何かが違うという微妙なアンバランスさが自分の中にあった。前の宇宙飛行士のように走れなくなっているもどかしさは、決定的な魂の喪失感のようにさえ感じるんだ。

 

その状態だから、ウィリアムズに移籍して3回目のレースで衝突事故を起こした。でもその気持ちって、けっこう複雑なんだ。それは次にまた集中して意識化してみようと思う』

 

 

2024年514

「セナさん、人生回顧も大詰め、最後の死の場面を今日はお伺いさせてください。まだまだ未熟な私ですが…」

 

セナ 『いや、プロ意識というのは大事だよ。プロフェッショナルというのは、自分を知っていること、特に自分の限界を知っていることを言うんだ。そういうプロの目で僕は自分を見ていれば、あの事故は起きなかったと思う。モナコの予選の時のように、自分やその他の状況を正確に把握したならば、僕はあの日、走らないという選択をしたかもしれない。心に何か不安なものがあったからだ。でもその不安よりも、目標に向かうことを僕は選んだ。

 

まず、不安というのは、その前に事故が多発していて、友人たちが怪我をしたり、亡くなったりするのを間近に見ていたからだった。車の性能は毎年どんどん上がってスピードが増していく中、サーキットというのは10年、20年と使うもので、そこまで頻繁に補修もされていない。だから危険性は上がっているという全体状況はあった。ほんの1ミリのヒビがハンドルミスを起こさせる誘引になったりしていた。それが第3層の現実的な懸念。

 

だけどそれでも、結果を出したいという目標は譲れなかった。それにもし何らかの事故になっても、僕は自分の身を守れるだけの技術はあった。だからこそ、際どくコースを責めて走れるところがあったんだ。むやみやたらに攻めていたというよりは、それに対するリスクも予測した上で、自分とマシーンとコースの全部の状況を合わせた限界ギリギリまでを図る、それがプロフェッショナルな目だったと思う。そういう面での状況判断能力は、僕は非常に高かったのではないかと思うんだ。

 

まずは結論から行こうか。僕の第1層の魂は、「もう、この辺でいいだろう」と今回の人生を終わりにしたいと思っていた。なぜなら、サーキットやエンジンは今後改善の余地はあるにしても、僕自身の心に何か陰りが出てきたので、それがレーサーとしての自分の最盛期から、山を下る方に向かわせることが予測されたからだった。

 

それが憑依だというのは、当時は自覚していなかったけれど、意識が先鋭化したキレキレの感度が、少しでも曇るというのは、0.01秒を競うレーサーにとっては致命的だからだ。それに、それまでの最盛期で体験したことで、すでに学びとしては十分だった。限りなく<今>に近づいた意識状態に向かい、霊体脳と肉体脳が調和した0点に到達していたのだから、それで魂としては十分満足だった。かなり密度の濃い人生を送っていたから、それが普通の人の80歳分くらいにはゆうに達していただろうしね。

 

だから魂としては事故にどこか向かっているようなところがあったんだ。どうせ死ぬならレースで死にたい、しかも一発で亡くなりたいというのも願望だったからね。

 

でも、それを第3層の意識ではもちろん否定したんだ。まさか死ぬなんて考えもしていなかったよ。ここが第1層と第3層のズレだろうね。第3層は観念に縛られているんだ。「死ぬのはまだまだ先だろう」と思いたかったし、「もっと結果を出したいという目標」もあったからだ。だから自分の一番深い無意識が死を受容していることを、僕は一生懸命に否定したくなり、それで第2層では不安が生じていたんだ。

 

深い所ではもう死にたい(=今回の人生をアガリたい)けど、意識的には死にたくない(=まだ地上への執着がある)んだから、それって本当に困った状態なんだよ。どうなるかというと、第2層は良い意味と悪い意味の両方があるということだったろ? でもそうなると、その時に意識的なのは地上への執着の方なんだから、悪い意味の方に舵が触れるんだ。僕は不安ではあるけど、「勝ちたい」という気持ちを奮い立たせた。

 

そうすると、どうなるかはもう分かるね? それが種になって、いつもよりも憑依霊が大きく影響することになる。だから、いつもなら第1~3層での状況判断で、例え事故になったとしてもとっさに身を守って、せめて車のクラッシュで済ませるところが、こういう内面的な葛藤があったために死亡事故になった、ということだったんだ。このような全体構造がわかったところで、次はその事故の瞬間の細やかな意識化をしてみるよ』

 

※休憩

セナ『その日の僕は、ある意味ではものすごく調子が良いという面もあった。なぜならどこか死を受容している魂の最後の日というのは、物事が不思議なほどあるべき方向に向かって流れているような、そういう穏やかさがどこか併存するし、最後の地上的瞬間を味わおうと意識も鮮明になる。調子としては良かったんだ。

 

だけど、魂のあるべき方向を、僕自身の自我(エゴ)は許容できなかった。だからその調子のよい自分にどこか反発したくなるような、そういう自分の意識感覚もあった。自分の第2~3層自体もそうだったけれど、たぶんそれは僕だけの意識ではなく、そこに憑依霊も乗っかってきていたんだと思う。エゴの僕と憑依霊は、死にたくはなかったんだ。

 

でも、普通なら曲がり切れる緩やかなタンブレロコーナー手前で、僕はいつも以上に加速していた。それは魂の自分であって、限界ギリギリのその一歩先に、最後の最後でも挑戦しているような状況だった。まるでタイムマシンに乗っているかのような気分で、時間がそこで消えたようにさえ感じた。僕は宇宙で一人だった。

 

でもコーナーに入って些細な道路の段差があった。例え0.01ミリでもそれだけスピードが出ているとハンドルが取られるんだ。ここまでは僕の魂の願い通りではあったが、第2~3層の自分は生存への防衛心は当然出て来るから、即座に身を守ろうとした。それで急速に減速して300キロを200キロ程度にまでは落とした。そしてたぶん、自分だけの実力で、しかもその時に生きることが正しい道であれば、例え壁に激突したとしても死なないようなぶつかり方をしたと思う。もっと早くハンドルを左に切ったんじゃないかな。そうすれば壁に衝突したとしても、より角度を緩やかにできるからね。

 

でもその時の防衛反応に憑依霊も関わって来ていたんだ。いつもの先鋭化した意識の開けた状態に、さっと影が入って来たように感じた。視界が曇って一瞬の判断が遅れるという状態になったんだ。なぜなら魂が死に向かってはいても、憑依霊は「死にたくない=死なせたくない」とこちらの運転に関与しようとしてくる。でも彼らは自分の力量をわきまえていないから、そういう瞬間に適切に対応して自分たちで回避できるはずがないんだ。だから「死なせたくない」というのに、関与したせいでうっかり死んでしまう方向に後押ししてしまった、という状況だったんだろう。

 

僕の魂はその憑依霊の関与も込みで、その運転ミスを受け入れたんだと思うね。自分だけだったらほぼまっすぐ壁に激突するというのは、さすがにどうあってもできないから()。そして、そのようにレース中に僕が事故死することが、その後のカーレースの安全性の向上にも役立つことになった。だから元々レース上の改善要求を出していた様々なことが、それで一気に執り行われるようになって、みんなのためにもなっていたんだ。

 

僕は即死だった。即死を望んでいたんだよ。だから即死にさせてもらえた。激突による脳の強打、それに加え大破した車体の一部が脳めがけて飛んできたからね。それで脳死状態になっていたんだ。

 

ところが、そのままにしといてくれればよかったものを、病院では何とか蘇生させようと心臓に注射が打たれて、脳は死んでいるというのに、心臓だけは復活した状態になった。もしかしたら植物人間になってしまう危機がそこにあったんだ。それは憑依霊の仕業で、僕の意識はなくなったその体を、何とか蘇生させようと懸命になっていたことの現れでもあったんだ。そうやって憑依霊に引っ張られて、また地上に戻る可能性もあったけれど、幸運にも僕は死ぬことができたんだ。

 

ただ、そのように最後の瞬間、エゴの自分と憑依霊は「生きたい」と思っていてその点では強烈に共鳴状態が起こったんだ。それで、死んだ後に幽界に行ってしまった、ということだと思う。魂が死を望んでいたという点において、自殺者と同じく幽界でフリーズしていたということではなく、やはり最後に憑依されたというのがどうも理由だったようだよ。もし本当に魂の自殺だけであれば、アストラル界でゆっくりできていたのかもしれないね』

 

 

2024年514

「セナさん、ここまでどうもありがとうございました」

 

セナ 『僕も実はけっこう集中力使ったよ。人生という1レースを、最後の数年に絞りながらもザッと総まとめをした上に、なおかつ最後の1秒の中に、それまでの生き方の総決算がさらにギュッと凝縮されていたからね。僕は魂とつながった生き方を基本はしていたから、最終的にはどんなに無意識であってもそっちが軍配を上げた、ということだったと思うよ。死ぬ瞬間の最後の1秒って、皆にとってもそうなのかもしれないね。それまでの生き方がギュッとそこに立ち現れる』

 

「宇宙のはじまりから現在までを1年に換算すると、近代以降の歴史は最後の1秒にあたる、ということでしたが、なんだかそれを思い出しました」

 

セナ 1秒の凝縮。最初のビッグバンも1秒だったというしね。時間というのは計り知れないものがあるね。1秒と1億年が同じ密度にだって、きっとなるだろうから』

 

 

2024年515

直子「貴重な人生回顧、ありがとうございました。<その一瞬>に何が起きていたのかがよくわかり、大きな学びとなりました。

 

ジョン・レノンさんが銃弾に撃たれて即死した時も、また、マイケル・ジャクソンさんが薬物の過剰摂取で亡くなった時も、彼らの魂はこの辺で人生を終わらせることを望んだのだろうと思っていましたが、セナさんも、やはりそういうことだったんですね。頂点を極めた人は、それでもやり続けるのか、あるいはそこで終わらせるのかは、それぞれの自由な選択で、どちらもありなのだろうと思います。

 

私もあの時、リアルタイムでテレビ観戦していましたが、その瞬間、直感的には自殺なのではないか、と思っていました。なぜなら、本来のセナさんであれば、あのようにストレートに突っ込んでいくことはない、例え突っ込んだとしても、その一瞬はスローモーションのようになり、身を守る技術は持っていたはずだ、と思っていたからです。

 

でも、2~3層のエゴに憑依霊が絡んだために、逆にそれができなかったというのは、結局は非常にうまくできたストーリーだったということですね。しかも、その後、F1での死亡事故がゼロになることに貢献し、30年経った今もなお、セナさんの名は<音速の貴公子>として伝説になっているのですから、結局は、セナさんの魂の願いプラス天意だったのだろうと思います。

 

いろいろと本当にお疲れさまでした。<新しい世界>に進んで、また新たな創造性を発揮して下さいね」

 

セナ 『見守っていただき、ありがとうございました。あの瞬間をリアルタイムで見ていたというのも、こうしてつながる時のための布石でもあったのでしょうね。

 

あれから、本田さんと話をして一般的な人との共通点を洗い出していました。①覚醒タイミングが早かった人、②魂では死を受容していても、第2~3層でまだ生きたいと思っている人。今はこれらの人が増えているようです。特に②は、この地球の現状がどんどん悪化し、自分の精神を保つのも大変になってきていますよね。だから本田さんは「実は魂としては速くこの世を去りたいと思う人は、これからますます増えるのではないか」とのことでした。

 

輪廻の最終回として来ている方々にとっては、これから無駄に長く生きるよりも、自分の霊性や精神性を落とさないうちに、早目に去ることは大事なようです。そういう意味で、僕も速やかに地上を去ったということには、今はとても満足しています。憑依がからんでいてびっくりしましたが()、でもまあそれも大きな目で見ればよい学びだったと思いました。

 

僕は今、<新しい世界>の7次元にまで一気に来てしまったようです。こちらでしばらくまたいろんなことを探究してみます』

 

 

 

参考リンク:人生回顧 ジョン・レノン:他殺による不慮の死

     人生回顧 マイケル・ジャクソン:薬物による中毒死

 

 

 

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