立花隆<あの世>でのインタビュー10 思考力と創造性(本・漫画・動画の影響):夏目漱石×手塚治虫×伊藤正男
2021年7月15日、16日
立花 『今回も、なかなか興味深いテーマです。私はこの中では本を読み書きしてきた部類の人間で、ノンフィクションという分野でしたが、言葉での表現の世界に慣れ親しんできました。漫画は絵がメインで場面が展開していきますし、動画はもうそれが実写なりアニメなりで作られている表現スタイルです。
時代変遷でいえば、情報収集の手段としては、1960年まで本がメインで、それから少しずつ漫画がではじめ1980年代に主流となり、2000年に入ってからは動画の割合が増えていったように思います。
「本→漫画→動画」世代で、何が変わっていったのか、思考力と創造性というテーマで探っていきたいと思います。ではまずは夏目漱石さん、本による表現について、思うところをお聞かせください』
漱石 『本は言葉で綴られていますが、それは思考力を養います。頭の中での考えや内言というのは、言葉でなされていますので、自分の心の動きを捉えるにも、考えをまとめていくにも、言葉による思考力は不可欠と言ってよいと思います。
私はイギリスに留学したこともあり、言葉による論理性は大事にしていたのですが、思考というのは結局、論理的な筋道を構築していくものであるように感じています。
ではその論理とは何かといえば、〈関連づけて考える〉ということだと思うのです。頭の中が散漫な状態でいる場合は、何か思い付いても雑念のように浮かんでは流れ去っていくようなものです。
それはアカシック・フィールドの中のゆらぎや、量子の不確定性原理と同じく、瞬間ごとにとりとめなくチカチカと瞬滅しているようなものだ、といえるかもしれません。
時にはその一つに捉われて、同じことをずっとぐるぐると思い悩んだりもしますが、単発的な言葉だけでは、そのようにとりとめない散漫な思考として、あまり建設的なものにはなりません。
しかし、本としてまとまった文章というのは、言葉を使った思考力によって、論理付けられた(関連づけられた)ものです。それが例え文学であっても、そこにはストーリーがあり、その流れの中には、やはり前後が関連づけられた論理性が土台としてあります。
ですから、本を読むというのは、そのような「論理的思考力をまずは養う」という特徴があるのではないかと、私は思います』
立花 『私も、本を読むことで論理的思考力が養われたように感じますので、それはよく分かる話です。伊藤さん、それに関する脳の働きについて、ご説明いただけますか?』
伊藤 『言葉は左脳で処理されますが、しかし論理性のある文章というのは前頭前野の統合力を使って把握しています。なおかつ本というのは、文字だけでは終わらず、それが表現しようとしているものを、次に右脳で絵(ビジョン)としても想起することも多いんですよね。
例えば「〇〇くんは、朝起きてバナナジュースを飲みました」と書いてあったら、脳の中ではバナナジュースを飲んでいる〇〇くんを思い浮かべているからです。その時は右脳を使っています。
このように、左脳・右脳・前頭前野という、脳の全体を使っているのが、本を読むということです。言葉で入って来たものを映像化・統合化していくために、脳のネットワークはより広がっていきます。
そのような読書で培われた能力は、自分自身が何かを考える時にも応用されていくため、確かに本を読む世代は、思考力や論理性を基盤にしながらも、全体的なバランスも鍛えられていたといえます。
ただしその程度は、やはり人によって当然異なります。どれだけ論理的に考え、想像し、その書かれたものを深く受けとろうとしているかは、人によって違うからです。とは言え、一般的には本を読むことが思考力の土台になっていたことは、確かだと思います』
立花 『ありがとうございました。読書は左脳だけかと思いきや、左脳・右脳・前頭前野の全部を使っているということなのですね』
伊藤 『もちろん、暗記するために文字をただ読んでいるような場合や、簡単な説明文や、事柄が羅列してあるだけのような文章というのは、左脳だけで処理しています。
しかしより複雑な文章というのは、それを頭の中で理解するために、右脳でビジョン化していることが多いのです。例えば、「AとBの二つの点を一本の線で結び、その線の真ん中をハサミで切る」という文章を読むと、それを頭の中で想像して、シュミレーションがなされます。
そのように右脳で〈画像化、映像化、ビジョン化〉した方が、言葉だけで把握するよりもはるかに効率的なため、脳内でそのように〈情報の整理・想像・構築〉をしながら、文章を読んでいるのです。それで左脳も、右脳も、前頭前野も使うことになるというわけです』
漱石 『あの、ちょっといいですか? 実は小説などを描く時は特にそうなのですが、私の頭の中で(画像・映像を含む)ビジョンがまずはあるのです。それに言葉をあてて文章にしていきます。
ということは、作者は〈ビジョン→言葉〉という流れで表現し、読者は〈言葉→ビジョン〉にして、脳内でその情報を想起・統合している、ということなのですね』
伊藤 『そうです。その点についてさらに深読みすれば、作者は何を表現しようとしていたのかをまず推測した上で、しかし自分にはこのようにも読み取れるという、言葉に変換される前後でのお互いの違いも、認識できることがあります。
それは、言葉に変換することによって、それぞれ異なる考えを持つことも可能、ということでもあります。そのような思考性の自由度に関しては、漫画の話の後に、また考察していけたらと思います』
立花 『では手塚治虫さん、漫画についてお話しいただけますか?』
手塚 『漫画の原点は、江戸時代の浮世絵だといえるかもしれません。葛飾北斎が絵手本として、数多くの挿画をまるで辞典(※『北斎漫画』)のようにまとめましたが、その一つの絵を見るだけで、それが何をしていて、どういう形なのか、踊っている人ならばどんな心情であるのかまでも伝える力があります。
そして何といっても、人に伝わるインパクトの強さですよね。頭で考えることを素っ飛ばして、心にストンと入ってくる、もしくは無意識にその絵が残る。
だから伝えたいメッセージを漫画で示せば、人の心に入りやすい。しかも、(まだ言葉による理解が不十分な)子どもたちに伝えるには、最良の手段でした。
日本では1960年以降に週刊「少年マガジン」や月刊「なかよし」などの漫画雑誌が発刊されるようになり、それに続いて「少女フレンド」、「少年ジャンプ」、さらには「月刊漫画ガロ」や「COM」など、次々と発刊されました。
しかも1980年以降は、それらの雑誌が本屋だけでなく、コンビニでも販売されるようになって、一般家庭にも爆発的に広がっていきました。
漫画の良さは、1ページの絵から伝わる情報量が多いことです。主人公の表情、眉一つを歪めることで怪訝な顔になったり、影の使い方、どの視点からの構図にするかによって、主人公の心情に寄り添ったり俯瞰したりなども、描き手は自由に表現できることが魅力的でした。
しかし、先ほどのお二人の話を聞いていて、それは描き手の自由度であって、読み手にとっては、本来は〈言葉→ビジョン〉と自分の頭の中で展開させていくべきものを、こちらが先に絵で提示していくようなやり方だったのだな、と思いました。
それによって、ストレートかつダイレクトに描き手の意図が伝わる反面、読み手の方はただ受動的に読んでいけば、論理的な思考力や想像力はそれほど使わなくてもよい媒体であった、ということですね。
実は私は、元々は5次元の宇宙からやってきていたので、漫画による表現は、その5次元的な情報のやり取りに慣れていた、という面があったように思います。それは、頭の中にあるビジョンを相手にそのままテレパシーで送る、というコミュニケーション方法です。
そうすると、本来は多くの言葉で説明しなければならないことが、コンパクトに一つのビジョンとして集約できる訳ですから、その内包する情報量は結果として多くなるというのが、私にとってはやり慣れた方法だったのです。
その5次元的な表現スタイルを3次元で立ち現わしたのが、日本で発祥したと言われる漫画であったのかもしれません。それは、3次元から5次元にうまく人類全体がシフトできていれば、情報共有の進化と多様性として、一つのツールになっていたのかもしれません。
なぜなら、漫画によって若い世代は、地球の終末も、次元のワープも、死後の世界も、妖怪からファンタジーの世界まで、「幅広く、何となく受け入れられる」という土壌ができていた、といえるからです。
それが漫画の利点でしたが、一方で漫画の欠点は、以下にまとめられるのではないでしょうか。
(1)言葉で紡いでいかないために、〈思考性・論理性・統合性〉が育ちにくいこと
(2)作者の世界観を、そのままビジョンで受け取ることになり、自分の中での想像の幅は狭められること
(3)何となく感覚的に受け取り、それを言葉で意識化するまではいかないので、曖昧にしたまま読み流す習慣がつくこと
特に(3)に関して言うなら、本の場合は思考力で読んでいるので、途中で引っかかればそのまま読み流していくのは難しく、それに向き合わざるを得なくなるのですが、漫画の場合はそもそもフィクションの世界が多いので、「こんなもんか」と思って、読み流してしまいやすいのです。
そのようにサラッと読み流せるところが、実は漫画の売りでもあるのですが、そこで感情がいろいろと反応することはあっても、論理的思考性は養われないという面は、確かにあったと思います』
立花 『利点も欠点も含めてまとめていただき、ありがとうございました。伊藤さん、いかがでしょうか?』
伊藤 『本が前頭前野を使って意識的に読む努力を必要とする反面、漫画は無意識的・受動的な状態で軽く読み流していけるという面は、確かにありますよね。
脳でいえば、漫画を読む場合は右脳を使っていることになりますが、右脳というのはどちらかといえば受動的に働くところなのです。そのため、意識的な脳の中の作業(=考えること)のスイッチが、OFFになる傾向はあるようです。
大人になってから気分転換のために漫画を読む場合はともかくとして、子どもの頃からそれに慣れてしまうと、長い文章を読むための思考力を使うことが、億劫に感じるようになってきます。
そのような漫画世代の人々が大人になるに従って、かつては子どもの読み物だったものが、むしろ大人向けの漫画として出版されるようになりました。しかも、忙しい現代人にとっては、漫画の方が考えなくてすむために、より手軽な気晴らしになるのでしょう』
立花 『今ではそれが、さらにアニメやYouTubeなどの動画に変わっているという話もありますが、それによってまた脳の使い方がどのように変わっていくのでしょうか?』
伊藤 『例えば、本世代の思考力のある方が、映像を見るとすれば、そこから読み取れるあらゆる情報を、自分で推測したり統合したりしながら見ていることと思います。脳の使い方というのは、習慣化したパターンになっているので、よく使う人は常によく使うようになるからです。
もちろん、そういう人は意識的にOFFにすることもでき、そこは考えないことにしておこうなど、脳の働きを意識的に使いこなすこともできます。ですから、漫画を見るにしろ、映像を見るにしろ、主体的に見ているといえます。それは、自分で脳をどのように使うかの、選択の幅を持っている、ということです。
しかし漫画世代になると、絵としての受動的な受け取り方に慣れてきたために、その分、思考力はあまり使いこなせなくなりました。使っていないと退化していく、というのが人間の脳でもあるからです。
ただ、漫画は自分のペースでコマを読み進める、という能動性はまだ残っていたのですが、映像世代になるとそれが完全に受動的になります。
考えなくても映像はどんどん進んでいき、他のことを思っていて、ほとんど見ていなかったとしても、一方的に映像が流れてくることに慣れていきます。そうすると、漫画の読み流しをさらに超えて、何も考えずに受動的にただ映像をボーッと見ている、という脳の使い方になります。
そのように小さい頃から育てられれば、脳としては思考停止状態が、一般化していきます。思考停止のままボーッとしていると、快感物質がでてくるのですが、その快感にひたるために内容はともかく映像を見続ける、ということになるのです。
このように、本→漫画→動画と情報媒体が変化することによって、脳をあまり使わない、特に前頭前野で統合しなくてもよいという、情報の受け取り方をするようになりました。
漫画の時は、それなりに良い面もありましたが、映像世代になってからは、その他の環境要因も相まって、決定的に前頭前野の発育停止になってしまったのです。ですから、映像世代の人々は、もはや本を読むことができません。
もちろん、本を読んでいた世代の人が、頭でごちゃごちゃと考えることによって、自ら脳内に〈蜘蛛の巣〉をつくるという弊害もあり、逆に漫画世代があまり考えないからこそ、直観的に物事の真髄を捉える、ということもあるはずです。
しかし、そのようなことがあったとしても、〈本世代→漫画世代→動画世代〉となっていくごとに、脳の機能を限定的にしか使えなくなり、結果として自由な思考力が低下した、というのは確かに言えるようです。
言葉というのはなかなか奥深いもので、その言葉で思考し統合することによって、体験を学びに変えるためには、必要不可欠な条件でした。
第2層の無意識を意識化するのも、また論理的に統合するのも、第3層の肉体脳(特に前頭前野)でしかできないことなので、その脳を鍛えるために言葉は与えられた、といってもいいほどです。それができなくなった時点で、脳の劣化は決定的になったといえます。
その一方で、本を読むことで思考力をしっかりと鍛えた(一握りの)方々は、今やそれぞれの分野の最先端の現場で、その好奇心を発揮しておられるようで、そのように両極化している、というのが現状なのではないでしょうか』
立花 『私も多読な方でしたが、本を読むことによって知識も思考力も上がり、〈選択の自由〉を得ていたように思います。
言葉は絵に比べると、長々と説明しなければなりませんが、伊藤さんがおっしゃったように、脳の中での認識、思考、想起、情報の統合という、あらゆる要素を一気に働かさないと、その言葉で表現されたものを受け取れない。しかしそれこそが、使った分に比例して開発されていくという、脳の機能を育成していたということですね。
先の「脳と意識」のインタビューでは、火と言葉が与えられたことによって、ホモサピエンスの脳は進化したということでした。その中でも言葉というのは、とても大事な要素だったのだなと、改めて実感しました』
伊藤 『言葉があるために、観念や抽象的イメージを、それぞれの中に想起できるところがあります。
例えば「神」と一言でいっても、その言葉からある人は全知全能の人格神を思い浮かべ、ある人は自然そのものを、ある人は法則を、ある人は意識そのものではないかと、それぞれに違ったことを思い浮かべているんですよね。
それを補って共通の理解にするために、いろいろな説明をして同じイメージを持つようにしていくのが文章ですが、それでも、その言葉を受け取る読み手の裁量の自由というのは、相当にあるわけです。
しかし漫画や動画になると、相手に伝えたいことは「バン!」と伝わっていきます。思考力が培われた上でなら、それも有効に働きますが、漫画や動画を主に見ながら育ってしまうと、言葉のように自分の中で構築していけるような自由度は、養われなくなってしまいます。
ただ受動的に情報を受け取って、自ら思考しないという脳の使い方が、パターン化するからです。そして今やそのように「考えなくてもすむこと」が、劣化した脳のニーズとしてむしろ求められていますので、意味のない動画が人気になる、ということも起こっているのです。
人間の自由とは、どのようにそれを感じ、考えて、選択するかという、脳を全体的に使いこなせるようになって、はじめて獲得できるものです。ところが今は深く考えられず、葛藤もできず、自分の狭い観念で判断し、最終的には思考停止になっているということですから、脳内で選択する自由もどんどん失われている、ということなのです』
立花 『本を読む時は、なるほどこの人はこう論じるのだな、あの人はこういう考えなのだなと、自分と違う意見をそうなった背景まで類推しながら、様々に受けとめていきます。そして最終的に自分はどう思うのかを、考える楽しさがあります。
それが、自ら選択する自由を持っている、ということですよね。そしてそれは、言葉によって思考する脳を与えられたからこその自由だった、ということですね』
伊藤 『そうです。言葉があるからこそ、脳の中で〈自由〉が生まれました。言葉がなく、思考ができなかったとすれば、反射的・パターン的・受動的にしか選択はできません。ホモサピエンスが言葉を与えられたのは、この〈選択する自由〉を得るためだったということです。
その言葉を、本を読むことによって吸収するからこそ、より深く考えて自分なりの新たな創造にまで展開できました。その言葉による思考プロセスを経ないと、思考力と創造性の幅は狭まってしまう、ということなのです。
そして今では、その言葉を使う本でさえ、質がかなり低下しています。それは表層的なところで思考しているために、そのような表現しかできなくなっている、ということなのでしょう』
立花 『〈本→漫画→動画〉という情報を受け取る媒体の変化、その質の低下もまた、脳の劣化を象徴する話だったということですね』
伊藤 『そうです。ただし、まずは言葉による思考力を培った上で、漫画や動画の利点も活用していくのは、もちろんOKだと思います。例えば、ブラックホールが映像として捉えられたことは大きく、あの快挙一つで集合意識は一気に刷新されましたよね』
立花 『なるほど、確かにそういう面もありますね。今回、「言葉があるからこそ、思考力も創造性も脳の中で開花していく」というのは、なかなか奥深い話でした。
人類は、言葉によって支えられていた〈自由〉をもはや失ったからこそ、〈リセット・リスタート〉をするしかない、ということにもつながるように思います。みなさん、どうもありがとうございました』