立花隆<あの世>でのインタビュー11 愛について:イエス×ブッダ×立花隆

2021年1013

立花 『さて、今回のお二人は、ソクラテスさんと並ぶと<レジェンド三貴神>といえるでしょうか()。イエスさんとブッダさんにお越しいただきました。テーマは「愛について」ですが、これはとても大きな話題ですね。ですので、アイドリングから始めたいと思います。歴史上の人物は大変だとお聞きしていますが、その辺の話からまずはよろしくお願いします』

 

イエス 『そうですね、地上からのアクセスは多いですから、何かと忙しくしています()。ソクラテスさんも、「地上から呼ばれる度に、生前の印象で出ていかないといけないので面倒だ」とおっしゃっていましたが、私も地上の人に(脳内の)ビジョンとして現れる時は、生前のイメージを損なわないよう、なるべく髪はソバージュにしています()

 

ブッダ 『絵画の影響って大きいですよね。その点、私は顔がそんなに印象づいていないので、楽です。菩提樹の木の下で瞑想でもしていれば、「あっ!」と思ってもらえるので、そういう工夫はしていますが()

 

イエス 『わかります。私にとっても十字架は必須アイテムですから』

 

立花 『いやはや、こんな感じですか…(口を押えて笑いをこらえている)、さすがレジェンドです。お二方とも、当時のイエスやブッダということではなく、それから2000年以上たった<今>の自分ということで、かなり違っているのでしょうねえ(笑)。

 さて、この辺で今回のテーマに入りますが、<愛>について、まずそれぞれのお考えをお話しいただけますか?』

 

イエス 『はい。愛というのは普遍的なものだと思われがちですが、実は意外に観念に彩られているものなんですね』

 

立花 『と言うと?』

 

イエス 『例えば、この世の時間軸である<時代>によっても、人の心の第1~3層のどの層からの愛かによっても、はたまた何次元につながった愛なのかによっても、その時々の愛というのは、本当に様々なんですよ。

 だから同じ状況でも、Aさん、Bさん、Cさんにとっての愛はそれぞれ違い、どのような行為が愛なのかというのは、一概には言えないのです。

 もちろん、動機での判断はできますが、その動機も心のどの層からのものか、どの次元における愛なのかなど、愛というのは本当に多様であると思います。つまり、それだけさまざまな深さの愛がある、ということなのです。

 なおかつ、相手にも第1~3層があり、そのどの層に向けるかによっても、表現方法は変わりますからね。さらに、子育てにおける愛などは、子どもが成長していくにつれて、その時々にふさわしい愛が求められます。ですから、子育てこそ愛のトレーニングとしては、難しさの極致であるといえるでしょうね』

 

立花 『確かに、そうですね。シリーズ3でも、無力である自然と子どもたちをないがしろにして、経済優先にしたことが今回の男性社会の反省として、結論づけられていました。それは結局、しっかりと子どもを愛し育めなかった、ということでもあるのでしょうね』

 

ブッダ 『男性経験の方が多い私たちにとっては、心が痛む事実ですよね。私などは、妻子を捨てて修業に出ちゃいましたから』

 

立花 『ほんとですね、それはさすがにいかがなものか、と言う人は多いと思いますよ()

 

ブッダ 『まったくその通りです。おかげであまり情愛が育っていないんですよ。博愛レベルにすぐに行ってしまって…』

 

立花 『まぁ、それはお役目だったと思いますし、情愛は第2層の感情でもあるようですから…。そういえば、「アストラル界の最上層が、キリスト教でいう天国であったのではないか」という話もありましたが、それについてはいかがでしょうか?』

 

イエス 『そうだと思います。キリスト教では第2、3層の心の中での、最高の愛を語っていましたから。その時代は、その部分を強化しようという天界の意図はあったと思います。

 私が死後アストラル界に光をもたらしたというのも、それまでのアストラル界(=第2層)は、闇ばかりで混沌としていたために、闇から光へと徐々に向かっていけるように階層化する、ということがまず大きな役割でした。

 しかし、そのように始まったキリスト教も、今やいろんな宗派に分かれていますが、宗教の難しさはそこだなと思いますね。結局、愛を語りながら権力闘争をしていますから。それは観念の中での愛でしかないために、そうなるのです』

 

立花 『そういうことですね。では、仏教での愛はどのようなものだったのでしょう?』

 

ブッダ 『私が修業でつかんだ愛というのは、無機質なものだといえるかもしれません。本来、仏教は外在神を想定していないんですね。ひたすら自らの内に向かっていき、「今、ここ、この私の、ありのままを見る」ということをやっていました。それは自分の執着心や観念をひたすら見ていく、ということでもあったのです。

 心を第3層→第2層→第1層→直日へと深めていけば、悟りの境地に達します。そのように、悟りへの境地や天に向かっていくルートを探求していたということです。ですから、「ありのままを見て、受け止める」という愛を経由しながら、最終的には叡智に至る道のりであったのではないでしょうか』

 

立花 『なるほど。それぞれの宗教の愛の在り方がつかめました。ところで、仏教とキリスト教の共通項は何でしょうか?』

 

ブッダ 『因縁・因果ではないでしょうか』

 

イエス 『確かにキリスト教も「蒔いた種は刈らねばならぬ」ということで、因果応報の法則は語っていましたね』

 

立花 『今、お二人はそれについて、どのようにお考えでしょうか?』

 

ブッダ 『因果応報の法則は、愛の側面と叡智の側面の、両方があるように感じます。私は叡智の側面に重点を置いて、人間の苦しみや悩みがどのように生じるかなどを、十二因縁として細かく見ていきました。叡智に昇華していくためには「ありのままを見る」ということがまずは必要なのです』

 

イエス 『私は愛の側面だったでしょうね、「隣人を愛せよ」ですから。今の視点で見れば、因果応報の法則のシステムは叡智で成り立っていると思いますが、個人がその法則によって得るものは神の愛なのではないかと思います。

 一般的には善因善果が神の愛だと思われがちですが、それだけでなく、悪因悪果さえも愛なのです。それは神(といっても唯一絶対の外在神ではなく、内在的な大元の神)が一人ひとりに「その道は正しいぞ」「もう少し魂に叶ったことをしろよ、目を覚ませよ」というメッセージを送っていることでもあるからです。

 悪果が来たとしても、それは決して見放されたとか、裁かれているということではなく、愛をもって現実を通して神が語り掛けている。そして、その現実を通して自分に向き合うように示してくださっている、ということです。

 そして自分とは神の分身ですから、自分に向き合い、その自分を知るということは、神を知るということにもなるのです』

 

 

2021年1014

立花 『ブッダさんは、今、愛をどのように感じておられるのでしょうか?』

 

ブッダ 『瞑想をしていると、意識が自分の中心にまで深まっていき、直日に到達します。そうすると、先ほどの「ありのままを受け止める愛」としか言いようのない、ニュートラルで俯瞰した目線になっています。

 それは、神がそのように私たちを見ている目線を、同じように自分にも向けられるようになる。つまり自分を批判したり評価したりせずに、ありのままに見て、受け入れられるようになる、ということだと思うんですね。それが究極の愛であると思われます。

 しかし、もう少し現世的な愛を感じてみると、瞑想でも悟りへの道程の中で立ち現れる光やエネルギーが、あたたかく自分に流れ込んでくる。それに包まれているということも、ありますよね。一般的な愛の感じ方というのは、それが多いのかもしれません。ですから、天とつながるということは、そのような光やエネルギーとしての愛が、自分に流れ込んでくるということであるとも思うのです。

 そのように愛というのは、自分の中からわいてくるというよりも、常に循環しています。親から愛された分しか、人を愛せないというのも同じことで、愛は神や他者からいただいたものを、何らかの形で他者へと流していくものだということです。エネルギーとしての愛は、巡っているんです』

 

立花 『その感覚もよく分かります。確かに自分がまずは愛され、満たされていないと、人に何かをする余力はないですからね。自分が枯渇した中で、なけなしの愛を出していると、どうしても自己犠牲的な気持ちになるのかもしれませんね。イエスさんはいかがですか?』

 

イエス 『確かにそうだなと思います。本当は誰もが神に愛されているのですが、それをこの世で育っているうちに、この世の観念ではじいて「私は愛されていない」と思うようになることも多いでしょうし、第1層の霊的自我を切り離して生きていると、神を否認することにもなりますから、次第に大いなる愛も流れ込まなくなってしまうのでしょうね。どちらも、自分自身が神の愛を拒否している、ということですが。

 人からの愛は求めても得られないことがありますが、神からの愛は自分がそれに心を開けばいいだけのことなのです。本来、誰であっても第1層の霊体脳は大元の神とつながっているのですが、それを実際に心や体にまで浸透させるには、まずは第2,3層の心を開いて、それを素直に受け取ることが大事なのです。大元の神とつながりたいというのは、人間の欲求の中でも最も奥深くにある、根源的な願いなのですから。

 しかし、実際に最も強く愛を感じられるのは、やはり人と関わって受けた愛なのかもしれませんね。それは心に直接響いてくる愛ですから』

 

立花 『人との関わりにおける愛も、いろんな段階があると思いますが…』

 

イエス 『はい、現実的な愛、心理的な愛、そして魂に響く愛まであると思います。そして一番誤解されるのは、魂に響く厳しい愛なのでしょうね。実はこのプロジェクトでずっと目標とされてきた<リセット>も、それなのです。

 神はずっと見守ってありのままを受け止めてきましたが、もはや修復不能でこれ以上続けてもさらに悪化していくしかない状況の中で、多くの人々が苦しんでいる。そういう場合は、リセットをして今一度天とつながった調和のとれた世界に戻す、ということなのです。

 そしてそれは、人類にとっては3次元の因果応報の結果でもあるのですが、そのように自分たちの所業に対して結果が返ってくるというのは、やはり神の深い愛なんですね。つまり、この辺で「目を覚ませ!」、「魂を取り戻せ!」という<厳しい愛>だとも言えるのです』

 

立花 『なるほど。いろいろ多角的な方向から愛について語っていただきながら、最後は厳しさという、あまり理解されていない愛の話になりましたね。愛とは、やさしさやいたわりだけではなく、本当に深みのあるものだと実感しました。

 魂の向上進化というのは、そのように愛と叡智の深さを増していくということなんですね。これまで私は、叡智の方にばかり偏っていましたが、やはり愛との両輪があってこそ、正しく進化していけるように思いました』

 

ブッダ 『叡智のない愛は自己満足的になりがちですし、愛のない叡智は危険な場合もあります。どちらも大事だというのは、私もそう思います』

 

イエス 『それを現世的にいえば、愛は情緒的、感覚的なものだけでなく、理性的なものとして、第3層の意識的自我もしっかり働かせて適切に出していく必要がある、ということではないでしょうか。そうやって相手への理解や現実検討を行った上で、多様な愛をその時々で発揮していく、それを体験的に学べる場が、この地球なのでしょうね。やはり3次元というのは、なかなか高度ですね()!』

 

立花 『理性的な愛、これもまた盲点だったと思います。愛には高次元のニュートラルなものから、光やエネルギーとして循環しているもの、魂を正すための<厳しい愛>など、さまざまな段階がある。そして、この世では感覚的・情緒的だけではなく、理性に根差した愛を適切に出していく必要もある。それが愛と叡智の両輪が必要なわけなんですね。

 愛と叡智の専門家のお二人だったからこそ、この話が成り立ったように思います。どうもありがとうございました』

 

 

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