松下幸之助・本田宗一郎・井深大の鼎談

 

2021年316

※井深大さん(ソニーの創業者)、本田宗一郎さん(本田技研の創業者)、松下幸之助さん(松下電器;現パナソニックの創業者)に鼎談をしていただけないかとお願いしてみる。

 

 

◎<世のため人のため>:経営理念

 

井深 『私たちは戦後復興時、企業という形態を取りながらも、目指していたところは社会貢献でした。<世のため、人のため>という気持ちから、私たちの時代は渋沢栄一さんがおっしゃっていた<論語とソロバン>の両輪を経営の柱に据えていました。まずもって商品を一般家庭の消費者に届けようとしていたのも、暮らしを良くして日本を再生していきたいという願いがあったためでした』

 

本田 『自力で再生しようとしていたんだよね。国とかに頼らず。負けて何クソ!という思いはもちろんあったけれど、それ以上にチャレンジ精神がムクムクとわいてきたもんでした』

 

松下 『そうでしたね。外国製品がドッと入ってきて、その進歩は日本のものと歴然とした差があり、「追いつけ、追い越せ!」ということで、日本全体が発奮したところがありましたね』

 

井深 『しかも焼野原からのスタートですからね。そこから雨後の竹の子のようにド~ッと世の中が動きはじめました。みんな必死で、そのエネルギーたるやものすごく、ここから時代は変わるだろう、というのは誰もが感じていました』

 

松下 『特に資本主義経済のもとで新企業が乱立していきましたね。モノが売れる時代背景もありました。みなさんがおっしゃるような「モノ・カネ・勝つこと」に盲目的に走り出したのは、戦争で負けた後からだと思います。

私たちも、それに流されるかどうかの葛藤はありました。しかし葛藤できるタイプであったから、自分の欲だけに流されはしなかったのでしょうね。私欲で動けばたいてい失敗しますから、「真理や宇宙の秩序に沿っていないことはうまくはいかないのだ」という経営哲学は持っていました』

 

本田 『哲学がなければ、ただの一発屋になって、すぐに落ちぶれていったことでしょうね。私は経営者ではなかったけれども、企業というのは哲学がなければ芯が通らない。社員もついてこない』

 

井深 『経営理念といってもいいでしょうね。「なぜ私はこの会社を作り、どのように社会貢献しようと思っているのか」ということを、私たち3人はそこが私欲やエゴによるものでなく、<人のため>というゴールデンルールに基づくところを信念としていたために、これだけ発展し、しかも長く続いたということだと思います』

 

松下 『大事なのはやはり<動機>ですよね。そしてそれを素直に維持し続けるというのは、なかなか大変なことです。<素直さ>の反対が<我が強い>ということだと思いますが、その我が出ると<自分のために>動くことになってしまいますから、そうなると<因果応報の法則>の<善因善果>には乗れないですからね』

 

本田 『私たちの時代は、「お天道さまが見ている」というのは、言われていましたからね』

 

井深 『それがギリギリ残っていたのが私たち世代で、そのために「モノ・カネ・勝つこと」だけに流されず、「論語とソロバン」の両輪で経営できたということだと思います』

 

 

◎建前と化した経営理念

 

松下 『今の企業は、本音をいえば利益追求が第1であり、理念や経営方針はあってもそれは建前としてですね。さらに言えば、企業をまとめていくことと、社会にどう見せるかということのテクニックやノウハウとして、表層的であってもたいそう立派な言葉が並べ立てられている、ということなのではないでしょうか』

 

井深 『それは大企業化してしまった私たちの会社にも、言えることかもしれません。先代から引き継いだ企業イズムはあるにしろ、大きくなればなるほど、11人の社員にまで創業者の情熱や理念は届かなくなります。

社会全体がグローバル化すると、その集合意識というのは表層的なところにならざるを得ず、みなが合意できる「お金」を中心に回るようになったのと同じことです。私自身も顔の見える範囲で密にコミュニケーションを取りながら、社員一丸となっている創業時が一番楽しかったです』

 

本田 『ほんとに、それはありますね。拡大した分、失ったものもありました。企業の集合意識は、拡大するごとに薄まったでしょうね。ぶっちゃけて言えば、我々男性の拡大志向というか、競争意識みたいなものは、実はぬぐえないほど根底にあり、それで走っていた面もあったかもしれません』

 

松下 『それはあるでしょうね。やはり大きくなると嬉しいし、勝てばヤッタと思うし、自分の思想は人に伝えたいと思うし・・・という社会的欲求に、私たちは常に引っ張られていたと思います』

 

井深 『男性の<性>なんですかね。競争社会ではその部分が大いに刺激されてしまう…』

 

本田 『止まりませんねぇ。一度走り出したら、雪だるま式に拡大路線にいきます』

 

松下 『結局、私たちは何とか経営哲学を持っていたからよかったものの、その次の世代くらいからはもはやそれもなしに、その男性の拡大欲求だけで走り、思想や哲学のない利益追求の会社だらけになっているのが現状だということなのでしょうね』

 

井深 『となると、その発端というか、狭間にいた私たちの責任というのもありますね』

 

 

◎改善の余地はあるか

 

司会 「今の日本経済や企業の在りようを見て、改善の余地はあると思われるでしょうか」

 

本田 『心が痛むテーマですね。とにかく私たちは楽しかったですよ。疾走しているのは。しかし、そのなれの果てが、今の状況ですからね。現代の人たちだけを責めるわけにはいかない。社会全体がそういう風潮になっていて、その中の個人はどうしようもないでしょうし、今の環境の中に放り込まれたら、私もそうなっていたと思います』

 

松下 『教育の必要性は強く感じていて、私はそれを実行していました。それなりに良い方に感化された方もおられるでしょうし、モチベーションも上がったことでしょう。しかし表層的な頭での理解にとどまり、結局は一時的な啓発に終わったところもあったと思います。

もちろん、しないよりはずいぶんと良かったと思いますが・・・。いちおう私たち世代にできることは、その時々では必死にやってはいたのですが、力及ばずだったということですね。残念ながら、もはや改善の余地はないと思います』

 

本田 『そうですね』

 

井深 『私も悔しいですが、それは認めます』

 

松下 『確かに悔しいですね。右肩上がりの時期にいた私たちは、限界を認めるということが、なかったですから。人間の傲慢さ<成せば成る>はなかなか強靭です。

そして、拡大し、繁栄していくものだと思っていたのは、観念だったということですね。確かに<生成と消滅>が自然法則ですから、それを受け入れる素直さがないと、宇宙の秩序からは外れることになってしまいます』

 

本田 『ま、やりたい放題やってしまったのだから、しょうがないですね。節度は持っているつもりでしたが、私の中にも競争心があおられている時はありました。私たちの世代で、悪い流れは止められたでしょうかねぇ。

戦後、経済に火をつけた後の勢いはすさまじく、止められない感じもありました。そしてそれは、正直なことをいえば、疾走していること自体は、気持ちよかったんだと思います。熱中しているというかね』

 

井深 『それはありましたね。職人的な熱中は特性なんでしょうが、その時代に「経済が動く、モノが売れる」ということの快感はありましたから、<人のため>の動機100%ということでもなく、そういう自分たちもいたと思いますよ。(人のためと自己満足の)微妙なバランスの中、ギリギリ保っていたということでしょうね』

 

松下 『はい、私も同じくです。正しいことを語り、目指してはいても、日々の実践となると、本当に難しいものですね』

 

 

◎<愛することと働くことのバランス>

 

司会 「精神分析学者のフロイトさんが、人生で大事なことは<愛することと働くこと、そしてそのバランス>と語られていたそうですが、みなさんはいかがでしたか?」

 

本田 『あー、それを言われちゃうと困ります()。仕事一筋で、バランスを考えることはなく熱中しました。男はそういうものだということで、それが文句も言われない時代でした』

 

井深 『私も同じくです。まったく仕事にのめりこんでいて、家庭は妻に任せきりでした。子育ての苦労を分かち合わずにいたのは失敗でした。

男性は仕事によるストレスも、そのやりがいや達成感などによって、ある程度発散できていましたが、家庭にいる女性は子育てを1人荷負わされて、大変だったということでした。それは耳に痛い言葉でした』

 

松下 『私は「夫婦仲がよくなければ経営はうまくいかない」と言っていましたが、その仲が良かったのは、妻がたいそう大らかで肝の据わった人だったために、支えてもらっていたところが大きいように思います。実質的には、子育ては妻に任せていましたし、仕事の比重がやはり多かったです。

 

私たち世代の一番の反省は、家庭は妻に任せ、夫は仕事にのめり込むということにあったのでしょうね。せめてそこのバランスをもっと大切にする意識をもっていたならば、経済だけに走らずに、豊かな家庭をつくることに向かえたのかもしれません。

 

戦後、核家族が増えていく中、男性は仕事に走り、女性は孤立した育児をせざるを得なくなり、負担が大きくなってしまったということは実感としてもあります。<愛することと働くことのバランス>ということでは、この時代の私たち男性は、働くことに傾きすぎていたと言わざるを得ません。

そしてそれが、日本の子供たちが育つための家庭的基盤をつくれなかった原因なのだということも、私たち男性は認めなければなりませんね』

 

2021年318

司会 「戦後復興のあの時代を振り返ると、「モーレツ社員」もやむを得なかったかもしれませんが、今、<愛することと働くことのバランス>を考えた場合に、どのような会社運営が望ましいと思われますか?」

 

井深 『第一にはもう少し休むこと、でしょうね』

 

本田 『そう、そして遊ぶ』

 

松下 『欧米に比べても、日本は働きすぎだと言われますね。戦後のモーレツ社員は確かにいきすぎていましたが、日本人の気質として<勤勉・勤行>が美徳とされてもいますから、そういう面から一丸となって努力をする面もあったように思います。

そして今ではもう少し受動的に、時代や社風の雰囲気に同調して(文句を言えずに周囲に合わせて)働きすぎてしまう、という面があるように思います』

 

本田 『でも昔はそうではなかったですよ。江戸時代はみんなうまく遊んでいたし、文化的豊かさも謳歌していました』

 

井深 『スピード社会ではなかったから、ゆとりのある時間を内面的充足にもあてられたのでしょうね。今はIT化も進み、その頃のスピード感よりも10倍くらい、ビュンビュンと走らなければならなくなった。何週間も待ってはいられず、即日対応が求められるので、休むこともなかなかできない現状はあるのでしょうね』

 

松下 『しかし、その忙しさが、何のために働くのかを見失わせ、考えること、反省することもしなくなったといえます。まして愛すること(=家庭に時間を割くこと)も、やはり忙しいと難しく、余裕がないとできない。

ですから、会社にできることは、休日と勤務時間を適切にして、バカンス休暇でも取れる体制をつくることが望ましいと思います。もちろんあらゆる面で問題があるでしょうから、それだけを変えて何とかなるというものでもないとは思いますが、せめて休みくらいは・・・ということでしょうね』

 

 

◎日本の教育の在り方

 

司会 「日本の教育の在り方について、生前もいろいろとご批判があったと思いますが、今改めてご覧になっていかがでしょうか? 生前、松下さんの「松下政経塾」や、井深さんの「幼児開発協会」なども含めて、何かご意見などありましたらお願いします」

 

本田 『おしなべて平均的な人を、大量生産しようとしているように見えます。個性を伸ばすというより、規格内に収めようというのかな。みんなグレーになってしまったら面白くないですよ』

 

井深 『(個性派の)本田さんはそう言うでしょうね()。私が幼児開発協会を作ったのは、確かに知的障害の娘に関与できなかったことを反省し、脳について調べていく中で早期の子供の可能性は無限に広がっているということが分かり、それを世間一般に伝えていこうと思ったためでした。

豊かな感性の開花が主眼で、現代の知識詰込み型の早期教育の推進だったわけではないのですが、しかし結果としてはその流れをつくるものになってしまったように思います。

 

教育というのが専門ではなかったのに、ついうっかり手を出してしまいました。その時には良いと思って語ったことも、本当にそれが長期的・統合的視野で見て妥当なものかに関しては、裏付けも弱かったものですから、もっと慎重にやるべきだったと思います。

子供の教育というのは、人類にとって最も大きな根幹問題であるからです。特に早期教育となると、その後の人格全体に及ぼす影響たるや、絶大なものがありますから。

 

そして男は理論で「ああしたらいい、こうしたらいい」と理想を簡単に語り、実際の子育ては女性に押し付けてきましたが、では「それを自分がしているのか・できるのか」と言われると、言葉に詰まるものもありました。

子育てをした人にしか子育ては語れないし、教育をした人にしか教育は語れない。私はそのどちらもしていませんので、分不相応であったと反省しているのです。今の日本の教育については、早期化していることを非常に心痛の思いで見ています』

 

松下 『私は教育から道徳が欠如しているように感じます。かつての古き良き時代の日本人が健在だったころは、勉強の点数はともかく、道徳だけはきっちりと教えられていました。

それは学校で習うだけでなく、親や地域の人からも「これだけは守って正しく生きなさい」と言われたことは、集合的観念としてもしっかりとあったのです。しかし今は、雷親父もいなくなり、教育者も道徳についてしっかりと威厳をもって語れる人は、ほとんどいなくなったのではないでしょうか。

 

道徳というのは、「正しく生きるとはどういうことか」ということです。その命題を携えている国や社会のリーダーを養成しようと、松下政経塾を作りました。世の中が「儲かればそれでいいじゃないか」という風潮に流れていることを憂いてのものでした。

当時、そこで学ぶ方は、選抜の上で入ってこられましたので、心根の良い方が多くいて、それなりにお互いにとって実りあるものになっていました。

 

しかし現代の一般的なところでは、大人になってから改めて教育・研修をするというのはなかなか難しいものもあります。やはり教育というのは、小さい頃からの土台が育まれた上に、さらに吸収していくもので、昨今の前頭前野の発達が小学生で止まっているという現代では、社会人になってからの教育というのは、昔ほど吸収がよくないのです。土台のもろさがあるために、積み上げがなされていかないということです。

 

またかつてのように、「魂にズドンと響いて、根幹的なことを受け取る」というよりも、表層的な思考レベルでわかったつもりになる傾向もあるようです。今は学校教育自体がマニュアル化し、まして企業研修は1つのノウハウやテクニックとして表層的にこなされているのではないでしょうか。

 

しかし本来の教育とは、それこそ人間対人間の真剣勝負であり、1人の心にどれだけ響くかは、その人の魂をかけた真実の言葉によってなされるものでした。教育者こそ、自分を良く知っていないとできない、大変な職業であるということです』

 

 

◎それぞれの<人生回顧>

 

司会 「最後に余談になりますが、夫婦の在り方について、そちらに戻られてからどう思われているでしょうか?」

 

本田 『家のことは任せ、女遊びをしていましたが、その分女房にもサービスし、「母ちゃん、母ちゃん」と甘えては安心する、母と子供のような関係でした。でもわりあいそれで情的つながりもあり、信頼感もあり、居心地もよく、私は自由にさせてもらっていましたよ。女房も「まぁしょうがないな」と付き合ってくれましたね。

 

人間として捨てきれないつながりみたいなものはあって、それは私がおしゃべりなもんだから、コミュニケーションがなんだかんだ取れていたし、職人気質の仕事ぶりを尊敬して支えてくれていた、ということなんだと思います。あと私は裏表もなかったから、憎めないヤツだったんでしょうね()

 

母と子のような夫婦の在り方は、お互いの成長にとってどうなんだ、という見解はあるでしょうが、わりと日本では一般的にもそういう甘えた関係だったんだろうと思います』

 

井深 『私は忙しさにかまけて仕事にのめりこんでいたので、家庭は妻に任せっぱなし。その上、障害のある子が生まれて、その子への対応に関与するとなると、相当時間も取られてしまうので、私は仕事に逃げた面もありました。妻は1人で抱え、相当大変そうでしたが、私も社員や家族を養わねばという建前のもと、自分の自己実現欲求の方を選びましたね。

 

家庭ではチクチクと言われるのもイヤで、なんとなく冷めた関係が続き、結局は(長男が大学生になって)離婚しました。私は幼少期(2歳)に父を亡くしていて、父としてどう子供に関わったらよいのかが分からず、家庭の中の父親像というものも希薄だったのです。それで(家庭では機能できない分、社会的に)障害者施設を作ったり、社会福祉に貢献したり、幼児開発協会という形での献身をしていました。

 

自分がされたことしか与えられないというのは、本当にそうだと思います。社会的に成功し、そういう面では人間としても高潔で信念を持っていたとしても、いざ家庭での自分はどうかとなると、とたんに弱さが露呈するものですね』

 

本田 『そういう面では、私は下町の鍛冶屋の息子で、両親そろっていたので、井深さんのように繊細ではなく、ネアカだったんでしょうね』

 

松下 『私は父親が経営で失敗しているので、いかに経営を継続していくかを考えるようになり、利益追求だけではダメだ、そこに信念がなければ続かないのだと思い、宗教哲学をその信念に据えていたところがありました。その思想から、夫婦仲というのは経営にも直結していく家庭という土台であると思っていたところもあり、心がけてはいました。

 

しかしそれ以上に、妻は本当に心の支えであり、私とは真逆のそのあっけらかんとした悩まないところは、とても学びにもなりました。真逆の性格の相手だったからこそ、相手のよさが際立って見え、それをうまく受け取れていたように思います。家庭のことは任せていましたが、妻に関しては感謝し、尊敬もしていました。ありがたいパートナーであったと思います。

 

こうして三者三様の夫婦像があり、それぞれにとっての課題に応じた相手、子供が与えられているということですね。社会的に成功する男性にとって、家庭での自分というのは、普段は表に出てきませんし、Wikipediaにも書かれません()。しかしその家庭で見せている自分こそ、ありのままの自分を映す1つの鏡であるようにも思います』

 

 

 

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