新しい世界の<今>
2025年7月2日
蓮 「今の<新しい世界>の様子を教えてください」
ナディア 『ちょっとガチガチだから、アイドリング的な話題からの方がいいでしょうね。今日話すことは、実はとても大事なことだから』
蓮 「では、型にはまらずに、思い付いた質問をしてみますね。実は、「<新しい世界>なんて本当にあるのかな?」と疑う気持ちが、私の中にもあるんですが、何かアドバイスをいただけませんか?」
ナディア 『それもまたいい質問ね! まずもっての前提は、「ないと思っている人にとっては、ない。あると思っている人にとっては、ある」ということ。なぜなら、5次元の世界というのは<思念の現実化>でできているから、自分の思念がそのように現実に反映されることで、まずは振り分けられる。
それは「死後世界はあるか、ないか」にも同じことが言えるのよね。ないと思っている人は皆、幽界に行くけど、そこは「死後世界はないと思っている人たちの、集合意識によってできた世界」でしょ? それに対して、5次元の世界というのは、「死後の魂の存続はあると思っている人たちの、集合意識によってできた世界」で、死後はアストラル界→精神界で感情や観念を浄化したのちに、5次元の新しい世界に行けるという仕組みが、今はできているんだよね。だからそう思っている人は、きっとそこに行くと思うよ。
でもね、「本当にあるかどうかは、わからない」という思いが、本音では誰にでもあると思うのね。だけど、それを「あるかはわからないから、疑わしい」と思っている人は、結局は「ない」という無意識的な観念の方に引っ張られている。だけど、そうじゃなくて、「あるかはわからないけど、実際はどうなのか、心を開いて体験してみよう。その時が楽しみ」と思えば、それは「ある」ことにどこか期待している自分がいることになる。
そういう微妙な気持ちの違いは、霊媒体質の方は特に、第2層のエーテル体が幽界に引っ張られているか、天界と共鳴しているかの違いによって生じるものなの。だから、幽界とつながった<疑い>に呑まれずに、好奇心をもって死後に展開していく世界を楽しんでもらえればいいんじゃないかな。そういう好奇心があれば、<思念の現実化>の推進力となって、5次元の世界はますます開けていくはずだから』
蓮 「そうですね。魂(天)とつながった自分であれば、そのような好奇心が出てきて、天真爛漫に信じてみる、という気持ちになれます」
ナディア 『天真爛漫さって、大事。それは、「神に対する素直さ」という意味だから』
蓮 「はい、それを大事にしますね。では今日の本題をお願いします」
ナディア 『難しいことを、簡単に説明するって大変なんだけど、できるだけそうしてみるわね。令和のはじめにリスタートが先行して<新しい世界>の5次元ができたけど、だからといって、「こっちはこっち」という感じで、3次元とは別の時間的枠組みで、先に未来に進んでいたというわけではないの。
こちらでは、3次元で即身成仏している(解脱ポイントを超えて天とつながって生きている)人とつながっていて、その人たちからの学びがどんどん送られてきていたのね。だから、共に<今>にいて、連動しあいながら進んでいた、ということなの。
しかも、3次元の学びって深いでしょう? それは光と闇に分かれていて、闇の体験をし、そういう感情もしっかり感じた上で、それを学びに変えると、劇的に<愛と叡智>が深まる、という場になっているからでしょうね。
それは、神と直接つながっていて、「光に向かうか、闇に向かうか」という選択権のない5次元にはない深さなので、その学びを共有してもらうことは、私たちにとっては「この上ないきらめきを有している」という感じなの。
そのきらめきというのは、感覚的にはその人が体験した闇によって、光がより浮き立つような感じで、美しさに奥行きが出るようなイメージね。心でいえば、感情がより深く耕されるから、それが心の成熟度の基盤となって、より安定感をも増すという感じかな。
神に近づくって、どこか「上に向かって進化していく」と思いがちだけど、3次元とつながって学んだ私たちにとっては「より深く学び、世界が広く見え、味わいが出る」という深化していく道なんだな、と実感してきているわね。それは5次元にはない奥深さなの。
そうは言っても、今後さらなる困難が予想される地上にいるということは、みなさんにとっては確かに大変だろうけど、最後の最後までいろんな感情を味わって、そこから学んだことを持ち帰ってきてもらえれば、と思ってます』